3月31日イースター礼拝のメッセージ

2024年331イースター礼拝  ヨハネの福音書20章19〜21節

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20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」 20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。 20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

<イースターの朝の、平和の挨拶>

 幼いころ、親族で唯一クリスチャンだった祖母に連れられ、川崎の聖公会(英国国教会)の聖パウロ教会に行ったことがあります。その礼拝で、参加している方々が、「主の平和」と前後左右の方に、挨拶をする場面がありました。 「主の平和」、という不思議に心温まる挨拶が心に残っていて今では手紙やメールの末尾に使っています。この平和という言葉は、平安、安心と訳され、ヘブライ語では「シャロームといいます。

 最初のイースターの朝、弟子たちは、自分たちの身の危険を恐れ、将来への不安にえ、イエスを裏切ったことを嘆き、全く平安を失った状態でした。 そんな弟子たちに、十字架で死んだはずのイエスが現れ、平和の挨拶を告げるのです「平安があなたがあにあるように。」(シャローム)

 

<何による平安?>

 みなさんはどのような時に、平安がないと、不安だと感じますか?経済でしょうか、健康でしょうか、人間関係でしょうか、仕事でしょうか、将来でしょうか。

 

もしもイエスが来られ、みなさんの前に立ち・・・私達の病をきれいに消してしまうや特効薬を示し、「平安あれ」と言ってくださったら?

職場や家庭の問題や悩み解決し、『平安あれ』と言ってくださったら?

預金通帳に多額のお金を振り込み、「平安あれ」と言ってくださったら?

イエスがあらゆる願いをかなえ、私達の平安を奪う全ての要素を取り除いてくださり、「平安あれ」と言ってくださるなら・・・・

私たちの心は安心と平安で満たされるでしょう。―――もちろん、別の感染症や災害が襲うかもしれません。職場や家庭に別の問題が起こるかもしれません。再び経済は悪くなるでしょうし、やがては健康を損い、結局他の大きな過ちを犯すでしょうが・・・―――

 

<イエスの示した十字架の傷

 弟子達にとってもそうだったでしょう。もしイエスが彼らの中に立ち、弟子達を恐れさせていた宗教家の首を示し「平安あれ」と言ってくださったら弟子達は安心したでしょう。または、人々の心を一瞬で変え、弟子達を歓迎するようにしてくれたなら、もし全ての状況を変えてくださったら、さらに言えば、時間を巻き戻し、イエスへの裏切りをやり直せれば、弟子達は安心したでしょう。

 実際に神様が状況を変えてくださる場合も多々あるのです(ですから大胆に祈ってください)。しかし、この弟子達の場合、まだこのヨハネの福音書の直接の読者である1世紀末の激しい迫害下の教会の場合、神様はガラッと状況や他の人を変えたり、整えたりはしていません。かわりに、イエスが「平安あれ」と言って示したのは、ご自身の復活のからだでした。いえ、その復活のからだの、手と脇腹の傷でした。

 

 主イエスは十字架にかかる前の夜、こう話しました。「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)十字架の死の際に、両の手に大きくあけられた痛々しい穴、わき腹を深くえぐり抜いた槍の傷跡、これこそが恐れる私たちに神が与え「主の平和」なのです。

 

<ゆるし:過去への平安>

 弟子たちはイエスを裏切った自分自身に失望していました。私達もまた、数えきれない過ち、愚かさ、失敗、罪、醜さ、があり自分自身を責めたり、受け入れられなかったりするかもしれません。しかし、その全ての責めや罰は主イエスが負われました。「神は、・・・私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」(コロサイ2:13~14)

 たとえ、人や私達が、自分自身をおう思おうが、イエスの復活のからだに刻まれた十字架の傷は、神は私たちを受け入れていることの、その愚かさや醜さや過ちすら全て受け止めてくださる救ってくださる、ことの証なのです。

 

<共にある:現在への平安>

 嵐のような状況の中で、私達は心細く、怯えます。しかし、主イエスの傷は、イエスが死に敗北したのでなく、復活し、今も生きておられることを意味します。その方は穴の開いた手であなたの肩を抱き、力強く宣言されます。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)あなたはどんな時も、どんな状況でも決して一人ではありません。神がいつも共におられ、あなたをその穴の開いた手で支え、導くのです。

 

<復活:未来への平安>

 私達は死を恐れます。全ての失敗、欠乏、喪失、別れ、それらは死へとつながっているようで、私達を不安にします。しかし、主イエスは復活をもって、私達の恐れの源である死の、その先を示しました。主イエスは復活のからだに刻まれた脇腹の傷を示し言われます。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。・・・このことを信じますか。」(ヨハネ11:25~26)やがての日、穴の開いた主イエスの手によって、あなたも新しいいのちへとよみがえるのです。

 主イエスは恐れる私達の真ん中に立ち、手と脇腹の傷を示して言われます。「平安があなたがたにあるように。・・・あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

 その傷にふれながら、知ってほしいのです。私達の恐れる死が、欠乏が、喪失が、孤独が、迫害が、目の前の惨状が、全てではないのだと。それを超えるものが存在するのだと。主イエスは死に勝ちよみがえられたのだと。そして、恐れる私達と共にあり、地に平和をもたらしてくださるのだと。

「あなたがたに平安があるように。」

 

<祈り>

復活のイエス様。恐れ閉じ込こもる私達のところへ来てください。

私達の真ん中に立ってください。「平安あれ」と平和の挨拶を告げてください。

あなたの手の傷を、脇腹の傷を、私達にお示しください。

私の汚れた手を、あなたのわきに差し入れることをおゆるしください。

そして、私達を見捨てず、語り励ましてください。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と。かつては、内にも外にも平和のなかった私達を、あなたの平和をもたらすものとしてください。 アーメン

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