毎日の聖書3月25日〜

おざく台教会毎日の聖書 25日~(受難週)

 

1日1章の聖書通読を用意しました。今回は受難週の一週間の出来事に合わせて聖書の言葉と、それに沿った短い励ましの言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

25(月)マタイの福音21章  

12〜13 それから、イエスは宮に入って、宮の中で売り買いする者たちをみな追い出し、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒された。そして彼らに言われた。『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。

 宮きよめ』とも言われる出来事です。柔和で優しいイエス様が、これほどお怒りになるなんて・・・、それは、ただ神殿での商売を批判したのではなく、経済力が神からの恩恵に直結するかのようなシステムが出来上がり、貧しい人・乏しい人が神からの祝福の外にいるかのような状況があったからです。神の前には、誰もが出られるのです。いえ、自分のほんとうの乏しさを知っている人こそが、神の前に出られるのです。貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。」(ルカ6:20)

 

26日(火)マタイの福音23

37〜38節 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。

 エルサレム(神の平和)という素晴らしい名を持った宗教都市は、大切なものを見失い、この数十年後、紀元70年にはローマ帝国との戦いで廃墟となります。イエス様が、現在の『イスラエル』という名を関した軍事国家を見た時にも、同じように嘆かれるのではないでしょうか?エルサレム、イスラエル、どちらも宗教的な名を持っていますが、そのような名があるからと言って、神の良い心にかなっているわけでは決してないのです。 神の名や、宗教を持ち出して、自分の欲望を実現しようとすることこそ、十戒の第三戒で禁じられていることなのです。あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。』(出エジプト記20:7)神の名を出して、何かを主張したり、正当化したりする時は、一度立ち止まって自分の心の本当の動機を探ってみてください。

 

 

日(水)ヨハネの福音

3 節「マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった、家は香油のかおりでいっぱいになった。」

 イエスがただの良い人、宗教や倫理の先生ならば、この高価な香油の使い方は誤りでしょう。けれども、イエスは神であり、その方がこれから私たちの身代わりに十字架にかかろうとするのです。それならば、決して無駄ではありえません。 私たちが人に差し出す愛も、日々の労苦も、キリストのゆえに、キリストの十字架のゆえに、決して無駄ではないのです。

日(木)マタイ福音

28節「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

 最後の晩餐の席で、キリストはぶどう酒を差し出し、自分の血にたとえ、その血によって生きよと言います。血の中にはがあると考え、肉を食べる際には血を抜いてから食べていたユダヤ人にとっては衝撃的だったでしょう。けれど、ほんとうの意味で生きるとは、なにかの命を得て、自らが生かされることなのです。私たちは、聖餐式の際、キリストの命を得るのです。そしてそのキリスト命によって新しく生きるのです。(このため、カトリック教会では、毎日、すべての礼拝で聖餐式《ミサ》があるのです。)

 

日(金)ルカの福音23

34節「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 宗教的な意味では、赦す、とは、受け入れる、とも言いかえることが出来ます。イエスは、自分を殺そうとするものをも、神が受け入れてくださるようにと、祈ったのです。

 あなたは、自分で自分を受け入れられていますか?自分自身を軽く考え、嫌い、拒み、否定してはいませんか?私たちには、欠けや、愚かさや、醜さや、過去の過ちなどがあるかもしれません。けれど、十字架のゆえに、完全に神に受け入られていることを、決して忘れないでください。

 

30日(土)マタイの福音27

65〜66ピラトは『番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい』と彼らに言った。 そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。

 イエスは埋葬され、大きな石の扉と、屈強な兵士たちが墓を塞ぎます。何より死という圧倒的な力が、イエスの上に覆いかぶさっているのです。弟子たちは諦め、隠れた部屋に鍵をかけて閉じこもりました。

 わたし達もこの暗闇の土曜日のように、失望と諦めの中で、閉じこもることがあるかもしれません。けれど、忘れないでください。暗闇の土曜日の翌日は、復活の日曜日です。死のあとには、復活の朝がやってくるのです。今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(第一コリント15:20)

 

31日(日)マタイの福音28章

イエスが彼女たちに出会って、『おはようと言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

すべてが終わったと思われていた朝、イエス様は『おはよう』といつも通りの、普通の、当たり前の挨拶で、女性たちに出会います。それでこそイエス様です。

人がもう駄目だ、全ては終わった、と失望し諦めても、イエス様にとってはそうではないのです。私たちはやがて、この命を終える時が来ます。すべてを諦め、目を閉じ、意識が失われたあとで、全てが終わったはずのあとで、私たちは神の手によって新しいいのちへと起こされ、このイエス様の声を聞くのです。『おはよう』

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