2月11日のメッセージ
「愛のまなざしを受けて」 マルコの福音書2章14〜17節
14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが取税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。16 パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
私は日曜は牧師ですが、平日は中学校の理科の先生をしています。以前は平日は幼稚園の園長でした。忙しさもありますが、保育や教育を通して教えられることも多く、教会にも生かされていると感じます。その中の一つに、『視線の温度』というものがあります。『こどもへのまなざし』の著者、故佐々木正美先生や、国立小児医療センターの田中哲先生から教えられました。(お二人共、キリスト教の方です)
東京中の保育者が集まる研修会で田中哲先生は問いかけました。「あなたはのこどもを見る『視線の温度』はどうでしょうか?冷たい目つきですか?あたたかいまなざしですか?」と。
冷たいめつき:欠点・未熟な点・悪いところ、に注目する
あたたかいまなざし:存在そのものを喜び、少しでも伸びてきたところをほめる
幼児教育(もともとキリスト教がベースにあります)の大前提は、こどもが何ができるか(Doing)でなく、何をもっているか(Having)でもなく、こどもの存在そのもの(Being)を尊ぶことです。こどもを宝のようにみつめるのです。愛することはみつめ方から始まると、学ぶのです。神のこどもである私たちも、そして教会も同じだと思うのです。
残念ながら、私たち人間は冷たい目つきが得意です。最初の夫婦アダムとエバが、互いを責め、いちじくの葉で自分を隠し合って以来、人は冷たい目つきで、互いの欠けを、足りなさを、指差し合い、裁き合ってきました。イエスの時代には、律法を基準に、あなたは罪を犯した、あなたは正しくない、と裁き合い、指を差し合いました。冷たい目つきによって罪人(つみびと)だと裁かれた人は傷つき、居場所を失っていきました。(一方で、いちじくの葉で着飾った偽善的な人も多くいたのです。私達の教会はどうでしょうか?) けれど今日の箇所からイエスの見方は違った、ということが分かるのです。私たちはイエスのまなざしを大切にしたいのです。
2:14 イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
「収税所にすわっているのをご覧になって」とあります。ローマ帝国に支配されているユダヤは税金を払うのですが、その税金を集めるのが収税人でした。ただでさえ憎いローマ帝国への税金を集めてユダヤ人が暮らすのですから、いわゆる裏切り者・非国民です。しかも立場を悪用し私腹を肥やす場合も多かったため、嫌われ、聖書でも、罪人(宗教戒律を守らない・守れない人として、神の呪いの対象と理解された)と並んで記されています。
ですから収税所に座っている人を「ご覧になっ」たら、普通は呼ばないのです。目を背けるか、睨みつけるのです。けれど、イエスは社会的にも、人格的にも、宗教的にも、問題を抱えていた
「レビが収税所に座っているのをご覧になって」、「わたしについて来なさい。」 と招かれたのです。イエスのレビへの見方は、人々の見方とは違っていたのです。
2:15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
場面はレビの家の食卓に移ります。食卓は交わりの場です。一緒に食事をするならばそれは、友・仲間であることを意味しました。イエスは、宗教的でなかったり、嫌われたりしていた、人々から冷たい目つきで見られていた取税人や罪人と共に食卓についたのです。(当然宗教家達はそのことでイエスを責めます。弟子たちも戸惑ったでしょう。)
私はこの2章15節(そして古いですが新改訳の第二版の翻訳)が大好きです。「こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。」これは私が願う教会のあり方です。
「こういう人たち」、問題を抱え、立派さがなく、周囲から嫌われたり、見下されたり、冷たい目つきで片隅へ追いやられ、傷ついていた人たち、そのような人たちがイエスと一緒にいた。言い換えれば、彼らは、負い目や責めを感じずに、安心してイエスと一緒にいられたのです。
人は、冷たい目つきの場所にいると、居心地の悪さや息苦しさ、不安や恐れを感じます。まして痛みがある時、問題を抱えている時、過去に傷つけられたり、見下されてきた場合、とてもではないですが、そんな場所に留まることはできません。けれどもイエスの食卓にはそれがなかった。イエスは、彼らの問題や傷や罪を知りつつも、責めたり、裁いたり、見下したりはしなかった。むしろ、彼らの存在が尊ばれ受け入れられた。(田中哲先生風に言うなら、暖かいまなざしで見つめていた)。だからこそ「こういう人たち」は安心してその場にいられたのです。
この箇所を読むと、ある教会を思い出します。その教会はキリスト教の基準から言えば、失格の烙印が押される教会かもしれません。いわゆる立派なクリスチャンはいません。離縁なさったり、結婚詐欺にあったり、シングルマザーになったり、病気の人、障害を抱えた人、家族や経済の問題に悩む人、問題のない人なんて一人もいなかった。 礼拝だって10時半に始まらない、週報が出来てない、メッセージも解説書見ながら話してる 。礼拝中に牧師と長老で一悶着あったり・・・どこを見ても、失敗ばかり、欠けばかり、 問題ばかり、傷ばかり・・・
でも、あれほど憐れみと慰めのあるあたたかい教会を見たことありません。 誰も人を裁いたりしない。みんな問題を抱えてるから、全然自分を誇れない。責めたり裁いたりする余裕がない。
だから、自分を飾る必要がない。立派で敬虔な自分を演じなくていい。自分の弱みや問題を安心して出せるのです。 他の教会にいられなくなった信徒、牧師や長老までもが、やってきて慰められて帰っていく。ひたすら神様の憐れみにすがって、人と比べずただ恵みの神様だけをみんなで見上げる。 そして、傷ついた人が悲しみの底から少しずつ立ち上がれたり、不思議なことに、毎年のようにキリストと出会い洗礼を受けていく。教会とはイエス様の食卓、イエス様のまなざしが満ちている場所なんだなぁ、と改めて感じました。
私達は、パリサイ人や宗教家のような冷たい目つきで、人を、そして自分を見つめないようにと気をつけています。そして、願わくはイエス様の憐れみのまなざしで自分を、そして互いを見つめたいと祈らされています。
このレビの箇所を見れば分かるように、人は優れたから、変えられたから、神に愛されるのでは
ないのです。愛されたから、愛のまなざしを受け続けたから、変えられるのです。
この収税人レビは後にマタイと呼ばれます。彼は単なる弟子でなく、12弟子になりました。自分可愛さに人から奪い、人の人生を狂わしてきたレビが、イエスとの出会いを通して、人に仕え、人のために最後は自分を捨て、殉教(アフリカのエチオピア)するまでになっていきました。また、マタイの福音書を記し、多くの人に希望を届けました。まず愛されたからです。
私達は、収税所に座っていたマタイのように、問題や、傷や、罪を抱えているかもしれません。どれだけ醜く、汚れていても、それでもイエスは、愛のまなざしで私たちを見つめ、ご自身へと招きます。あなたは、あなたの周りの人は、神の目に尊い、大切な存在です。