1月7日のメッセージ

20241月7日『キリストと出会う28』 ヨハネの福音書12章

IMG_20240107_090343

1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった、家は香油のかおりでいっぱいになった。4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」

<神は心を見る方>

 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 昨年は戦争があり、今年は災害や事故がありあした。この世界にはままならないことが多く、私たちの生活においてもそうだと思います。心をこめて行い積み上げていたことが簡単に失われ崩れたり、願い求めてきたものが叶わなかったり、努力に見合う成果が挙げられなかったり・・・苦労や不安も多く、生きることに前向きになりにくい時代だとも言われます。

 

 だからこそ、新しい年を始めるにあたり、覚えたいのです。神様は私たちの行動やその結果だけでなく、私達の心がどうあるか、深いところまで見てくださっている、ということです。

 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(旧約聖書:第一サムエル記6章7節)と言われている神は、私たちの心をしっかりと見つめてくれているのです。だからこそ目の前の出来事や結果もとても大切ですが、「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(旧約聖書:箴言4章23節)と言われた神の言葉を、私達の心を大切にする一年としたいのです。

 

 今日のマリアという人は、そのことを私たちに教えてくれます。マリア、姉のマルタ、そして兄弟ラザロは3度聖書に出てきます。

 1度目は、ルカの福音書10章。給仕に忙しいマルタが、手伝わずにイエスの聞き入るマリアに苛立つという出来事。当時は男性が主に学ぶ文化ですので、その指摘も当然です。しかし、イエスは、「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」と諭すのです。(女性活躍の先駆けです。)

 (2度目は、ヨハネの福音書11章。病で死んで墓に葬られたラザロと泣く姉妹のところにイエスが来て、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と励ましラザロを墓から蘇らせました。)

 そして、今回の出来事です。当時は、歓迎を表すために、油を用いる習慣があり、マリアは、ナルドの香油という非常に高価なものを使ってイエスをもてなしました。(大切なラザロを蘇らせてくれたことが、嬉しくて、その気持ちの表れかもしれません)

 

 ただ、その香油が高価すぎたのです。300デナリ、今日の300万円の価値です。一説には嫁入りのための必要な持参金代わりとも言われます。(マルタの許可は取ったのでしょうか?周囲は

凍りついたでしょう。また当時の文化では、髪をあらわにするのも道徳的に感心されません。)

 それを見たイスカリオテ・ユダは、使い方は無駄遣いだ。売って、貧しい人に施せばいいのに、と指摘します。当時の功徳のある行為がいくつか定められていました。祈り、献金、施し、などで、これらの行為こそが、社会的に・宗教的に、立派であり、その人間の価値を決めました。ベタニヤは『貧しい者の家』という意味の街です。もしユダの指摘のようにすれば、イエスの評判も更に高まったでしょう。

 

 マリアは自分なりに熱心にイエスに耳を傾け、ナルドの香油で精一杯感謝の気持を表そうとしたのでしょう。けれどそれも、周囲から見れば、非常識的で、非合理的です。評価や理解は得られず、周囲を満足させる結果も残せませんでした。

 わたしたちもまた、マリアのように自分なりに精一杯歩んでも、誠実を尽くしても、結果や評価が伴わなかったり、正しく理解されなかったり、するかもしれません。

 

 けれど、不思議なことに、両方の場面で、イエスは、周囲の人のようにマリアを否定していないのです。逆にマリアをかばうのです。ちゃんと、マリアのズレた行動だけではなく、心のありようをを見てくださっていたのです。

 そして、マリアのおかしな行動も、むしろ自分の葬りの用意だと、十字架を示すものとしてして、弟子たちを教えたのです。当然マリアにそこまでの考えが及ぶわけはない。でもそうやって肯定的に受け取め、周囲の人のためにマリアの言動を用いたのです。

 

 マルタは、キリストが喜ぶのは、奉仕だと考えました。ユダは神が喜ぶのは、施しだと考えました。 一方、マリアは二人と反対に、ただひたすらイエスの話に耳を傾け、大切な油をもって、イエスを歓迎しました。

 イエスは、マリアをかばっていますが、けっして、マルタも、ユダも否定していないのです。人はこうでなければ、理解や評価が得られなければ、と考えます。けれど、イエスは、愛し方・生き方の多様さを、受け入れ、教えてくれるのです。

 

 そして、イエスは心を深いところまで見てくれています。本来良い動機から始まったとしても、正しい行動だとしても、マルタやユダのように心がどこかズレていたり、伴わなかったりすれば、むしろ、そちらを気遣ってくれるのです。

 

 (この箇所は、奉仕に代表される行動より聞くことが大切だとか、施しより礼拝が大切だとか、決めつける文脈ではありません。どちらが大事だとかないのです。どちらも大切です。

 また、盲目的に、非常識的に、神に大きな犠牲を払うことが推奨されているわけでもありません。周囲への配慮は決して怠ってはなりません。一方で時には、非常識に神を愛する道もまた閉ざされていないのです。)

 

マザーテレサは言いました。「大切なのは、どれだけ多くをほどこしたかではなく、それをするのに、どれだけ多くの愛をこめたかです。」

 なぜなら、神が心を見て、受け入れ、肯定的に受け止め、喜び尊んでくださる善い方だからです。

 

この善い方に信頼し、他の誰でもない、貴方らしく、神様と人とを大切にする1年としてください。最後にマザーテレサが好んだとされる詩を紹介します。

『それでもなお』

 

人は不合理、非論理、利己的です

それでもなお、人を愛しなさい

 

あなたが善を行うと、

利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう

それでもなお、善を行いなさい

 

目的を達しようとするとき、

不実な友だちと本物の敵に出会うでしょう

それでもなお、やり遂げなさい

 

善い行いをしても、

おそらく次の日には忘れられるでしょう

それでもなお、し続けなさい

 

あなたの正直さと誠実さとが、あなたへの攻撃を招くでしょう

それでもなお、正直で誠実であり続けなさい

 

何年もかけて作り上げたものが、一晩で壊されるでしょう

それでもなお、作り続けなさい

 

本当に助けを必要とする人たちも、

助けたあなたに恩知らずの仕打ちをするでしょう

それでもなお、助け続けなさい

 

あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい

たとえそれが十分でなくても

それでもなお、最良のものをこの世界に与え続けなさい

 

最後に振り返ると、あなたにもわかるはず

結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです

あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです

Top