12月31日のメッセージ

20231231日  ルカの福音書

17:11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。 17:12 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、 17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。 17:14 イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。 17:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、 17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。 17:17 そこでイエスは言われた。「十人きよめられたのではないか。九人はどこにいるのか。 17:18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」 17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

<感謝とは、恵みへの応答>

 2023年も最後の一日となりました。最後の礼拝には、『感謝』について触れることにしています。もちろん大変なこと、辛いこともあったでしょう。もしかしたら、苦しいことばかりの一年だったかもしれません。聖書には、『すべててのことについて、感謝しなさい。』(第一テサロニケ5章16節)という言葉もありますが、本来の意味や文脈から切り離して、苦しいのに・辛いのに無理やり『全てに感謝します!』、などとは言わなくてよいのです。

 ギリシャ語で、感謝やありがとう、という言葉は、ユーカリスト、という言葉です。それは『良い贈り物』とか『素晴らしい恵み』を意味します。私たちの毎日には、苦しみや悲しみもありますし、パウロが手紙を送った初代教会はなおさらでしょう。けれど苦難があっても、神から見捨てられたのではない、そのような状況の中にも、神からの『恵み』は必ずあるのだ、けっしてそれを見失ってはならない、神はいつもあなたがたと共にいる、そのような苦難の中を歩む教会への、パウロからの励ましなのです。

 

<恵み、から、感謝へ>

今日のお話は、10人の皮膚病患者が、キリストの奇跡により、癒やしを体験する場面です。当時、肌の病は隔離の対象で、社会から切り離されました。また、一部の聖書の記述を拡大解釈し、病に代表される困難は、その人の罪を神に罰せられているのだ、そう理解されることもありました。今日の10人は、社会的にも、精神的にも、宗教的にも、大きな苦しみの中にいたのです。

 

また、ここにはユダヤ人とは犬猿の仲のサマリヤ人、政治的に、宗教的に敵対関係にあった人物も含まれていました。しかし、彼らは、国籍や宗教によらず、イエスを通して、病の癒しという恵みを受けるのです。

 

年の瀬になっても、戦争の報道が日々続く今、もう一度確認したいのです。私達に恵みを注ぎたいという神の心は、私達の考えより、はるかに、広く、大きく、深く、全ての人に、国籍や人種や宗教を問わずに及ぶのです。

少しそれてしまうのですが、今日一つだけ覚えておいていただきたい言葉に、『一般恩寵』という私が大好きな神学用語があります。聖書には「恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」(使徒14:17)とあります。全ての人間に、神は日々命を与え、日を照らし、恵みの雨を降らせ、豊かな自然や、人間関係を与えてくださいます。また聖書を読むと分かるのですが、私達が気付いても、気付かなくても、

私達の信仰の有無に関わらず、私達一人一人を気にかけ、守り、時には奇跡のような出来事をもって、私達を祝福してくださいます。

この戦争の時代、国家対立の時代に私たちは思い出したいのです。神は全ての人に日々恵みを注いでいると。神の恵みとは、限られた人のものでも、昔の話でもないのです。

 

大切なのは、そのことに気づくこと、神からのめぐみを覚え、応えていくことです。この10名のの皮膚病患者は、長い間の病が、その病がもたらす問題が解決しました。とても素晴らしいことです。彼等は喜んで帰りました。けれど、『そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。』(17章15〜16節)のです。(しかも他国民、他宗教とも言えるサマリヤ人がです!)

 

10人の人が奇跡的な癒しという恵みを体験しながらも、満足や喜びで終わり、自分の内でとどまりました。しかし、一人だけがイエスのところに感謝を伝えに「神をあがめるために戻って来た」(17:18)のです。それがいよいよ神との距離を縮めることになりました。イエスは彼に、「あなたの信仰が、あなたを直したのです。」(17:19)と、救いが、いのちが、彼の中に注がれたことを宣言します。

 恵みや、祝福は良いものです。けれど、それ自体を求めるならご利益宗教と変わりません。神学校で教えられた今も忘れられない言葉に、「恵みや祝福を求めるのではなく、恵みや祝福の源である方を求めなさい。」というものがありました。 この、引き換えしてきて感謝した人は、癒やしという素晴らしい恵みだけでなく、神という恵みの源と出会ったのです。 

『わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。』(詩篇103篇2節)私たちも恵みを数え、恵みの源である方に心向けながら歩みたいのです。

<キリストへの感謝>

 もちろん私たちは、あまりの苦難の大きさに、失望や落胆の深さに、何も考えられない、恵みを思い返すことすらできない、そんな時期を経験するかもしれません。(実際、ウクライナやガザの方々には、深い悲しみや苦しみの中にある人には、恵みを数える余裕などないでしょう。)あまりの苦難に、神の恵みや愛を疑りたくなる状況の人もいるでしょう。

 だからこそ、凄まじい迫害の苦しみの中にあった初代教会は、感謝を意味する、『ユーカリスト』、という言葉をある儀式の名に用いました。聖餐式です。そして今日まで、世界中で、聖餐式はユーカリスト(感謝)と呼ばれています。

 たとえ、暗く、苦しく、失望だけのような毎日だとしても、それでも『良い恵み』・『素晴らしい贈り物』はあるのだ、何よりの恵みは、キリストだ、彼の犠牲であり、彼のいのちだ。神の愛は確かにあるのだ、神は私たちとともにいるのだ。そのことを聖餐は教えてくれるのです。

 

今週の黙想 今日少し時間を取り、恵みを数え、思い巡らしてみてください。

1.素直に喜べる、良い出来事について

2.困難や試練の中での神の恵みについて

3.キリスト・神様ご自身について

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