12月17日のメッセージ

202312月17日「クリスマスの色」 

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1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。 

 

 

<クリスマスの色は?> 

 いよいよ来週がクリスマス。クリスマスと言えば、赤と緑です。それに白や金も加わって、建物も町も美しく飾られます。華やかで、温かみがあり、目にも美しい季節です。 

 けれど、最初のクリスマスがあったベツレヘムでは、今年はクリスマスの装飾は行わない、と報道がありました。ベツレヘムは、パレスチナ自治区にあり、分離壁で囲まれています。キリスト生誕の地として教会もありますが、ムスリムの方が多くいて、その大切な隣人が今深い悲しみの中にあるからです。 

 今年のベツレヘムの教会のネイティビティは、崩れた瓦礫の中に、幼子が寝かされているものになっていました。博士達や羊飼いも色がなく、ただ、瓦礫の灰色があるだけです。(ガザの、ウクライナの爆撃により瓦礫となった灰色の町を思い出します。)ウクライナの報道では、侵攻され街が灰色の瓦礫の山となっただけでなく、家族が被害に遭い、悲しみのあまり世界から色が失われたかのようだ、そう話しておられる方がいました。旧約聖書で喪に復する時に灰を被ったように、灰色は悲しみを意味し、このネイティビティは、今日の世界への深い悲しみと痛恨の思いを表したものでした。 

 

 

<色のないクリスマス> 

 最初のクリスマスにはイルミネーションも赤や緑の飾りもありません。艶やかな衣類に身を包んだ人や、豪華な装飾の部屋もあったでしょうが、それはエルサレムなどの都市の、一部の人の話です。場面のベツレヘムは貧しい寒村。そして、布すらも貴重品で、追い剥ぎが身ぐるみを全て剥いでいく時代です。貧しいガリラヤの夫婦は、粗末な衣類で旅をしました。 

 

 そして、若い夫婦の世界から色を奪うような、心を灰色に染めるような出来事が起きます。1節に『住民登録』とあります。支配する側が、税金の徴収のために行うものです。ユダヤ人は重い税金のためいつも乏しく、武装蜂起しては、圧倒的な力で鎮圧されていました。自分達に、希望などなく、苦労だけが待っている、そのことを身をもって体験する屈辱的な出来事でした。 

 

 そのように支配されたユダヤの国、その中でも、さらに田舎のベツレヘム。けれど、そこでもこの夫婦は拒まれるのです。7節『宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。』この宿屋とは、他の箇所全てで『客間』と翻訳されます。当時は旅人は客間に迎え入れる習慣がありました。けれど、マリアの妊娠の経緯を誤解され、どの家にも入れてもらえなかったのです。 

 やっと、見つけた寝床は家畜小屋。寝かされるベッドは、飼い葉桶(馬の餌箱)。生まれてくる幼子の存在が、いのちが、だれからも受け入れられない。あなたなど、その子など人ではない、家畜のような存在だ、そう言われたかのような体験です。(自分ならまだしも、子どもが拒まれるのは、親としては耐えがたかったでしょう。) 最初のクリスマスとは、華やかさや暖かさとは無縁の、暗い、灰色の、悲しみや、嘆きや、不安に満ちたクリスマスだったのです。 

 

 

<クリスマスの緑と赤> 

 暗く、色彩を失ったかのような夫婦の心、それをあたたかな色で染めるような知らせがもたらされます。羊飼いと博士がやってきたのです。 

 羊飼いは天使の知らせを告げます。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」(ルカ2:11〜12) 

 

博士たちは言います。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」(マタイ2:2) 

 

 誰からも受け入れられなかったはずの幼子は、ただの悲しみの象徴ではなく、救い主・キリストであり、ユダヤ人の王であるというのです。人々から受け入れられず、拒絶と悲しみの象徴であるかのような飼葉桶こそが、神からのしるしだというのです。 

 悲しみはただの悲しみではない、そこから神の救いが始まるというのです。嘆きはただの嘆きではない、そこから神の祝福が流れ出ると言うのです。 

 

 キリストは、神の救い主は、エルサレムの色鮮やかな宮殿でも、ベツレヘムの暖かな客間でもなく、暗く貧しい馬小屋に来た、力あり喜びに溢れた人ではなく、悲しみで心が灰色に塗りつぶされた人たちと共にいたのです。 

 

 ですから最初に見たネイティビティは表しています。ウクライナの、ガザにも、灰色の瓦礫の山にも、神の顧みが必ずある、神は決して悲しむ全ての人を見捨てないのだと。キリストは、力ある権力者とではなく、悲しむ彼らとこそ、ともにあるのだと。 

 

 この知らせこそがクリスマスの色を決めました。緑と赤です。 

緑は、暑い夏も寒い冬も葉をつける常緑樹のような、永遠のいのちを意味します。この幼子こそが、どのような状況の中でも、私たちのからだにも、心にも、魂にも、いのちを与えるのです。 

赤は血を意味します。ただの血ではありません。キリストの血です。この幼子こそが、私達のために十字架で血を流すのです。神の愛の色とも言えます。 

 

 深い悲しみの中で皆さんの心から色が失われる時、心が灰色に染まるかのような難しい時期を過ごす時、どうか最初のクリスマスを思い返していただきたいのです。 

 神は、悲しみ嘆く人とこそ、共にいてくださったことを。そして、心が色を失い灰色に染まったかのような人こそ、永遠のいのちと、身代わり血を流すほどの愛を与えられたことを。 

 

 また、今、少しでも余裕がある人は忘れないでください。讃美歌では、ベツレヘムに行こう、貧しく忘れ去られた場所に行こうと何度も繰り返されました。この方こそが本当のイスラエルの、世界の王だというのです。 

 神が心を向けるのは、力あるローマでも、華々しいエルサレムでもない、貧しく忘れ去られた色のないベツレヘムです。本当の王様は、軍隊を率いるのでも、爆撃や虐殺を命令するのでもない。イスラエルの、世界の王は、ベツレヘムの中ですら拒絶され、馬小屋の飼葉桶に眠るのです。 

 私たちは羊飼いや博士たちのように、ベツレヘムの飼い葉桶の幼子を拝む時、神の愛を、本当の平和を知るのです。 

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