毎日の聖書12月11日〜

おざく台教会毎日の聖書 12月11日~

 

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

 

12月11日(月)アモス書5章  

24節公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ。」

 人々は表面的には宗教的でした。儀式も行っていました。自分たちは敬虔だという自負もありました。けれども、貧しい人は捨て置かれ、悲しむ人は脇へと追いやられていました。

 神の願う礼拝とは、神に向けられた宗教行為だけではないのです。私達の日常の愛の業こそが、必要を覚える人に向けられた小さな行為や言葉もまた、神の喜ぶ礼拝なのです。

 キリストにするように、目の前の人に接することが出来ますように。

 

 

12月5日(火)アモス書6章

8節「わたしはヤコブの誇りを忌みきらい、その宮殿を憎む。」

 何かを誇ることは、決して悪ではありません。誇れるものがあるくらい、精一杯生き、取り組んだ証です。けれど、時に、誇りは、自分が神かのように振舞わせたり、神から目を背けたりさせます。

 『誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは【主】であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。──【主】の御告げ──』(エレミヤ書9章24節)

 

 

12月6日(水)アモス書7章

8節「見よ。わたしは重りなわを、わたしの民イスラエルの真中に垂れ下げよう。わたしまもう二度と彼らを見過ごさない。」

 イスラエルに見られたのは、神は他国を裁き罰するが、自分たちは関係ない、という態度です。自分たちが正義で、他は常に悪という高慢さです。

 私達にとって大切なのは、良い意味で、自分を、自分達を疑う姿勢です。神の前に正しい人間など一人もいないのですから。

 自分自身の歩みを省み、心を見つめる時間をとってみてください。

 

 

12月7日(木)アモス書8章

11節「見よ。その日が来る。━神である主の御告げ。━その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」

 神の裁きを、大地震や、疫病や、侵略など、生活や生命の危機がもたらされること、そう安易に考えていませんか。それらも好ましくはありませんが、より恐ろしいことがあるのです。

 それは神に背き好き勝手をする私たちが、神から、どうぞご勝手に、と言われてしまうことです。神が私たちを諦め、もう関わらなく、語りかけなくなってしまうことです。 

 やがての裁きとは、神が憐れみの手を伸ばさなくなってしまうことです。黙示録のような裁きの記述は、神からの憐れみの喪失という何より悲劇的なことの、比喩でしかありません。それに比べたら、燃える火がいったいなでしょう。

 私たちは神にすでに愛されている幸いを覚えつつ、私達の魂を活かす、神の語りかけに、今日も明日も、耳を傾けていましょう。

 

 

12月8日(金)アモス書9章

13節「見よ。その日が来る。━主の御告げ━。その日には、耕すも者が刈る者に近寄り、ぶどうを踏む者が種を蒔く者に近寄る。山々は甘いぶどう酒をしたたらせ、すべての丘もこれを流す。」

 耕しても刈取れない、種を蒔いても実を結ばない、 それが私たち人間です。けれど、11〜15節で神による回復が語られます。人々が神に背きに背いたのにも関わらず、神は省み、神の介入し、良くしてくださるのです。神は私たちを諦めきれないのです。どうか安心して歩んでください。

2月9日(土)オパデヤ書

3節「あなたの心の高慢は、自分自身を欺いた。」

 高慢、自己中心、自己義認、自分を神の代弁者のように考える、これは信仰者が陥りやすい病です。けれど、それは神でありながら誰よりも謙遜であったキリストとは、正反対の姿です。ピリピ2:1~8を読み、誰よりも小さくへりくだった方に、心を向けてみてください。

12月10日(日)ヨナ書1章

3節「ヨナは、主の御顔を避けて、」

 敵への神の愛がヨナを神に背かせました。ルカ15章の放蕩息子の兄のように、父の気前の良さが、愛の深さが許せなかったのです。あなたにとってのニネベは、あなたにとっての弟息子は誰ですか?主はあなたと、あなたの敵を深く愛しておられるのです。

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