毎日の聖書12月4日〜

おざく台教会毎日の聖書 12月4日~

 

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

 

12月4日(月)ヨエル書1章  

14節 断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。

 自分の人に対する過ちに気付いた時、私達は、謝罪や償いなどをします。そして、神に対する過ちに気付いたなら、私達は神に対してひらすらに叫ぶのです。

 イスラエル民族は、愚かなことをたくさんしましたが、同時に、民族全体で神に対して、たくさん自らの罪を悔い、祈り、叫んだ民族でもあります。(断食とは、悔い改めの象徴でした。)

 そして、その度に神の憐れみと、回復とを体験しました。究極的には、何度過ちを犯してもよいのです。何度でも、何度でも、その度に悔い改め(原意は方向転換)、再び神とともに歩むのです。

 

 

12月5日(火)ヨエル書2章

12〜13節「私「しかし、今、—主の御告げ—心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」 あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ

 私達の神は、悪や不正を放っておかない神であり(目の前でイジメられている子どもを放っておく大人や教師がいたら、そのほうが問題です)、その悪や不正を悲しみ怒る神です。同時に、赦しと憐れみに富む方でもあります。

 昔の説教者、スポルジョンは、挨拶の時に、相手の手を握り、『こんにちは』の代わりに、『悔い改めましたか?』と尋ねたそうです。私達は、何度でも、何度でも、情け深く恵み豊かな方に、立ち返り続けるのです。

 

12月6日(水)ヨエル書3章

28〜29節「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りや夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」

 ペンテコステが、全ての人に聖霊が与えられる(神が聖霊なる神様として、一人ひとりのうちに宿り、力を与え、導いてくださる)ことが、旧約聖書の時代から約束されていました。

 かつては、王、預言者、祭司、などごく一部の限られた人物にだけ注がれた聖霊が、どんな人にも、立場の低い人、注目されない人、力の無い人にも、与えられる、神がその人とともに歩み、その人を用いる、そう約束されています。

 あなたは、自分自身をどう捉えておられますか?神はあなたと共にあり、あなたを善いことのために豊かに用いてくださるのです。

 

 

12月7日(木)アモス書1章

1節「テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これは・・・・地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。」

 預言者アモスは、家畜の世話をする牧畜業の一人でした。王でも、祭司でも、役人でもありません。世間では注目も尊敬もされない人物です。そんな彼に神は語りかけ、彼を用いたのです。
 神は、私達と喜んで関わり、素晴らしいことのために用いてくださるのです。『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』エペソ2章10節

 

 

12月8日(金)アモス書2章

1&6節「ユダの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために・・・・イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。」

 1章では他国への罪の指摘と裁きが語られていました。自分たちこそ神の民だと自負するユダやイスラエルは、『そうだそうだ、やつらは裁かれて当然だ!』と満足そうに聞いていたでしょう。しかし、2章になり、自分たちの名が挙げられたのです。

 正しいものは誰もいないのです。神の赦しと憐れみを必要としないものなど一人もいないのです。でも忘れないでください、神が愛さない人も、キリストがその人のために十字架で身代わりに死ななかった人も、また一人もいないのです。

2月9日(土)アモス書3章

1節「イスラエルのこらよ。主があなたがた、すなわちわたしがエジプトの地から連れ上ったすべての氏族について言った、このことばを聞け。」

 神の民イスラエルは、神を信頼せず、好き勝手な歩みをしました。その第一の原因は、 自分が何者か、時分のアイデンティティを見失ってしまったのです。イスラエルは神が「わたしは地上の全ての部族から、あなたがただけを選び出した。」(2節)とまで言われた特別な民でした。けれど、自分がどれだけのことをしてもらったのかを、自分がどれだけ大切な役割をまかされているか、忘れてしまったのです。

 私達は、見失っていないでしょうか?忘れ去っていないでしょうか。あなたは、キリストの身代わりのゆえに、救われ、神の子とされました。あなたは地の塩、世の光です。神の目に尊い、特別な、かけがえのない存在なのです。

12月10日(日)アモス書4章

13節「見よ。山々を造り、風を造り出し、人にその思いが何であるかを告げ、暁と暗やみを造り、地の高いところを歩まれる方、その名は万軍の神、主。」

 (もちろん日々の黙想や祈りの時間にもですが)この日曜日、私達は礼拝で神と出会います。おざく台は小さな礼拝堂ですが、出会う神は大きく、偉大な方です。

 羽村・青梅から見える山々も、空も、雲も、大気も、神の手によるものです。朝の美しい光も、夜の深い闇も、造られた方です。私達は、広く、深く、大きく、高く、偉大な方と出会っているのです。

 そして、その方が新しい週も、あなたとともに歩んでくださるのです。勇気を持って、歩みだしてください。

Top