9月10日のメッセージ

おざく台教会2023年9月10日「キリストと出会う⑲」

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<聖書:ヨハネの福音書7章>

 1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。 2 さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。3 そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。 4 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」 5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのある。 6 そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。 7 世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行いが悪いことをあかしするからです。 8 あなたがたは祭りの日に上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」 9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。 10 しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた

<わたしたちの時> 

 今日は「時」(ギリシャ語で「カイロス」)という言葉、時間、季節、期間、機会、など広く訳される言葉目して、この箇所を読みたいと思います。

 私の勤めるキリスト教主義の学校で歌う賛美歌に「球根の中には」という曲があります。

1 球根の中には 花が秘められ、 さなぎの中から いのちはばたく。
  寒い冬の中 春はめざめる。 その日、その時をただ神が知る。
2 沈黙はやがて 歌に変えられ、 深い闇の中 夜明け近づく。


  過ぎ去った時が 未来を拓く。 その日、その時をただ神が知る。
 今は難しい状況であったとしても、必ず希望がある。今までの忍耐には意味があったのだと、喜びとともに知る時が来る。神がその時を知り、握っておられるのだから、失望せず毎日を勇気をもって歩んでいこう、そんな意味です。

1 天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。 2 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。 3 殺すのに時があり、いやすのに時がある。くずすのに時があり、建てるのに時がある。 4 泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある。 5 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。 6 捜すのに時があり、失うのに時がある。保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。 7 引き裂くのに時があり、縫い合わせるのに時がある。黙っているのに時があり、話をするのに時がある。 8 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。・・・11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。(伝道者の書3章)

 

 わたしも、この歌を口ずさみながら、この聖書の言葉を思い巡らしながら、園児たち・生徒たちの花開き、はばたく時を信じて、神の時を期待して、教育と保育にあたっています。

 

<キリストの時>

 この7章では、イエスも「わたしの時」と繰り返します。(6節、8節、30節、8章20節)。賛美歌で歌われた「時」とは、喜びの時であり、忍耐が実を結ぶ時です。けれど、イエスの「時」は意味が違うのです。イエスや聖書の言う、イエスの時とは、十字架の時、苦難の時でした。


 この少し前で(先週のお話でも触れましたが)、多くの弟子たちが離れていきました。12弟子達、イエスの肉親達にも、焦りや戸惑い、責める思いがあったのでしょう。「ここを去ってユダヤに行きなさい。 自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行う者はありません。あなたがこれらの事を行うのなら、自分を世に現しなさい。」(3〜4節)

 仮庵の祭り(荒野での40年の歩みを思い返すための祭り)で、エルサレムへ行き、人々の支持と賞賛と新規の弟子を華々しく勝ち取りなさい、といった意味と理解されています。

 けれどそのような兄弟たちの判断は、自分たちの希望や焦りをイエスに押し付けているだけで、本当の意味でイエスを信じているとは言えない(5節)のでした。

 

 なぜならイエスは称賛や、支持者を手に入れにエルサレムに行くのではなく、自分の命を(人々の身代わりとして)十字架で失いにエルサレムに行くのです。

 私達の時とは、報われる時、実を結ぶ時、勝利の喜びに涙する時、ですが、イエスの時とは、報われず、奪い去られ、敵対者が勝利しイエスを嘲る苦難の「時」です。十字架という痛みと苦しみと恥の中で、全てを失う「時」です。

 私達は苦難の先の喜びの時、死の先の復活の時を期待して、日々奮闘して生きていますが、イエスは苦難の十字架という時を目指して、生きていたのです。 やがての良いことの為なら我慢もできるでしょう、けれど、十字架のために、苦難と死のために、生きてくださっていたのが、私達のイエス・キリストです。イエスは私達のことをこれほどまでも思い、十字架に向かい、生きて、そして死なれた。イエスにとって私達は大切で、かけがえのない存在なのです。

 

<わたしたちのやがての「時」のために>

 イエスはただ苦しみたくて、エルサレムに行ったのではありません。ただ死のうとしたのではない。イエスは荒野の苦難を象徴する仮庵祭には、公式には行かないと言いました。イエスが公式に行くのは、エジプトからの解放を象徴し、犠牲の子羊が捧げられる過越祭(過ぎ越しの祭)だったのです。自らが人々の解放のための犠牲になることを目指していたのです。 イエスは、人々の罪を背負い、私達の身代わりに死ぬことを目指したのです。

「これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」(ローマ人への手紙11章27節)

 

 私は、生徒たちに、園児たちに、(そして、教会の皆さんにも)、この生涯で幸せであってほしいのです。生きる喜びに満たされて、笑顔で毎日を歩んでほしい。大変な状況を通る場合もあるかと思いますが、神様に守られ、神とともに通り抜けて、少しでも長く良い時を過ごしてほしいのです。神様は私達のいらゆる幸せのためにも良くしてくださることも多い。

 でも、神様どうして私が(この人)がこんな目に、そう思ってしまう状況にも直面します。でも神は究極的には私たちを決して見捨てていないことを知ってほしいのです。私達の最悪の時を、最良の「時」と帰るために生き、そして死んだ方がおられるのです。「球根の中には」の3番は以下です。

 

3 いのちの終わりは いのちの始め。 おそれは信仰に、死は復活に、
  ついに変えられる 永遠の朝。 その日、その時をただ神が知る。

 

 どれだけこの地上で懸命に生きても、喜びを積み重ねても(もちろんそれにも素晴らしい意味がありますが)、やがて迎える死、すべてを失う時を思うと身がすくむ思いもします。けれどもその死の「時」の先を開くために、死を悲劇で終わらせず、永遠の命への扉とするためにも、恐ろしいはずの「時」が、喜びの涙の時へと変わるためにも、イエスは生きてくださり、十字架へと歩んでくださったのです。私達のために生き、すべてを捧げ死なれた方がいる。それほどまでにあなたは大切な存在なのです。

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