9月3日のメッセージ

おざく台教会2023年9月3日「キリストと出会う⑱」

 

<聖書:ヨハネの福音書6章>
60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」61 しかし、イエスは、弟子たちがこうつぶやいているのを、知っておられ、彼らに言われた。「このことであなたがたはつまずくのか。62 それでも、もし人の子がもといた所に上るのを見たら、どうなるのか。63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。64 しかし、あなたがたのうちには信じない者がいます。」―イエスは初めから、信じない者がだれであるか、裏切る者がだれであるかを、知っておられたのである―65 そしてイエスは言われた。「それだから、わたしはあなたがたに『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』と言ったのです。66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった

67 そこで、イエスは十二弟子に言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」68 すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ。私たちがだれのところに行けましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。69 私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。70 イエスは彼らに答えられた。「わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。」71 イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。

 

<私達に関わる神様> 

 新学期が始まりました。教育や保育の世界にいれば、「このこどもは接しやすく飲み込みもよく関わりやすいな」、「このこどもは手がかかり、聞き分けも良くなく関わるのに心身のエネルギーが必要だな」、という思いを持つものです。一人ひとりが個性があり尊いのですが、育ちの早さ・傾向もそれぞれですし、相性のようなものもありますので、関わりやすさにおいては差が出ます。(自分を顧みれば、わがままで、飲み込みも悪く、保育園や小・中学校の先生方にはたくさんの迷惑をかけたと思いますが・・・)

 

 では、私自身は、日々私と関わってくださる神様にとってどのような存在だろう、と考えました。仕事柄礼拝に出ることも多く(日曜日と月曜日は、教会と学校で礼拝があります)、それなりに体裁は保っていますが・・・・どれだけ語りかけられても聞かず、応答もせず、表面上は人に偉そうに教えていても、内面の品性や祈り、神と人とを愛する姿勢、見えないところでの生活や心は・・・神様にとって目を覆い、ため息をつきたくなる存在かもしれません。

 

 では、神様は私を、私たちをどう扱うのでしょうか?宗教的基準を満たした心と生活でなければならない、神を満足させるテストに合格しないとならない、さもないと・・・そんなメッセージ、律法的で、人を切り捨てるような話を今日の聖書箇所から何度も聞いたことがあります。けれど、この箇所は、神が人を切り捨てる箇所ではなく、神が人を追い求める箇所であることを覚えたいのです。

 

<決して切り捨てず、追い求めるめぐみ>

 イエス様の周りには沢山の人がいました。地位の高い人もいれば差別され見下された人もいた。健康な人もいれば、病に苦しむ人もいた。財産や才能に溢れた人もいれば、乏しく少ししか持たない人もいた。宗教的や信仰的な人もいれば、それどころでなかったり、無関心な人もいた。多様な人達が、様々な動機や、熱量で弟子となっていたのです。 けれど、イエス様は選り好みせずに、皆を招いてくださいました。皆をご自分から呼び寄せ、関わってくださるのが私達の神様です。

 

 60節では、そのうちの多くが『これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。』(60節)と吐き捨てて、離れていきました。自分たちの希望や願望の通りでないと、イエスを見限ったのです。

 この言葉を聞いて、いつも思うのです。「神が全知全能ならば、はじめから招かなければいいじゃないか!こんな失礼な態度を取れないように、人間に細工でも出来ないものか!」

 イエスが弟子たちに愛想をつかし、『これはひどい弟子だ。だれがこんな人を救うだろうか。』と切り捨てるなら分かるのです。そうすれば人はビクビクし、姿勢を正し、熱心になるかもしれない(これはカルト宗教のやり方ですが・・・)けれど、まるで人間のほうが立場が上であるかのように、神が人に暴言をはかれ、見限られているのです。

 

 神は人間に自由意志を与えてくださいました。だから私達は、神すら見限り、十字架すら拒むことが出来ます。一方、神は『わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。』(ヘブル13章5節)と誓い、すべての人を招き追い求め、関わり続けます。自分を拒む人たちのために、十字架に磔にされるのです。私たちに自由を与えた神は、私達に対してなんと不自由でしょう。

 でもそれが私達の神なのです。カルト宗教では、教団が人々を束縛し、支配します。けれど、キリスト教では、逆に、神が、キリストが私たちに心縛られ、十字架に釘付けにされ動けないのです。

 

 私達のイエス様は、暴言をはかれ、否定された後でさえも、自分を捨てた人たちや、自分を殺そうと人たちのために、十字架にかかる。私たちの神は、私たちに向けて心縛れ、決して見捨てず、見放さず、切り捨てず、追い求めてくださるのです不思議な神様です。

 

<どんな人をも呼び寄せてしまうめぐみ>

 もう一つ大きな恵みがあります。それは、神学用語で『選び』とか、『有効召命』とも言われる概念です。自由意志を行使し、キリストに愛想をつかして去っていく人々に対して、イエスは言います。『父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない』(65節)

 

 これは、人には意志などなく信じ救われるかどうかは神がかってに決めている、とか、私達がどれだけ神と救いを求めても神が選んでくれなければ見捨てられる、といった意味ではありません。

 むしろ逆なのです。神から与えられた素晴らしい意志は、心は、存在は、罪による深い影響を受け過ぎているため、神の特別な恩寵が必要なのだというのです。

 

 私達は自分で意思を働かせて、神と出会い、今この場にいる。それは間違いありません。それは100%あなたの素晴らしい行動です。けれど、それと同時に、神の恩寵・特別な選びと召しがあり、神の憐れみにより今わたしたちはここにいるのです。(キリストが真の神であり、真の人であったこと、聖書が神の言葉であり、同時に人を用いして記された書であることと、似ているのかもしれません。)

 

 熱心に自分の信仰を主張するペテロにイエスは言うのです。『わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。』(70節)私達は憐れみを受けたから、今ここにいるのです。

「なたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15章16節新共同訳)

 

 ですからこんな言い方をします。天国の門の表側には『狭き門から入りなさい。』とあり、私達は自分の意志と決断で(キリストの十字架を信じ)天国の門をくぐります。 そして振り返ると、こう書かれているのを見つけるのです。『あなたは恩寵により選ばれた。』

 これは自由意志の否定ではありません。神の不加抗的で絶対的な恩寵の肯定です。どうか忘れないでください。私達は憐れみを受けたのです。そして、救われえない人など一人もいないのです。

 

<悪魔に心奪われた者ですら招くキリスト>

 先程のイエスの言葉は、こう続きます。「『わたしがあなたがた十二人を選んだのではありませんか。しかしそのうちのひとりは悪魔です。』 イエスはイスカリオテ・シモンの子ユダのことを言われたのであった。このユダは十二弟子のひとりであったが、イエスを売ろうとしていた。」(70〜71節)

 このあとの箇所で、ユダは悪魔に心奪われたとあります(ヨハネ13:2)。イエスを金銭で売り渡す悪魔

の所業をユダは行おうとしていた・・・けれど、不思議なことにイエスはこの後もユダをそばに置き続けるのです。

 

 ユダのことに関しては、自由意志と神の計画に関して、様々な議論がありますので、これだとは、断言はできませんが・・・

 イエスがユダに願っていたことならばなんとなくですが想像がつきます。ユダが自分を裏切ること、自分が十字架で苦しみ死ぬこと、それだけは変えられない・・・・ならばユダがどれほど罪深くても、キリストを売ったとしても、(他の弟子たちもキリストを捨てたのですから)、また悔い改めて帰ってきてほしかったのかなぁと、だから側において罪を犯しても、悪魔に心奪われても、そんな自分や自分の行為に失望しても、それより大きな神の恩寵がいつもあるのだと、知ってほしかったのかな、そう想像しています。

 

 私たちだって、イエスを見限った群衆と、イエスを見捨て逃げた12弟子たちと、イエスを知らないと3度否定したペテロと、悪魔に心奪われたユダと、変わりません。これからもっと酷いことをするかもしれない。

 だから今、この時に心に刻んでほしいのです。どのような私たちであっても、諦めず、見捨てず、見放さず、切り捨てず、追い求め続け、十字架にまでかかる方がいるのだと。

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