8月6日のメッセージ

おざく台教会2023年8月6日「キリストと出会う⑭」

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<聖書:ヨハネの福音書6章>

5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れと、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。

 

<数えられない人たち> 

 今日の箇所は5千人の給食として有名であり、復活を除けば、唯一全ての福音書に記されている大切な奇跡です。けれどこの5千人とは、その場に居合わせた人の全ての数ではありません。数に入れられない、数えられない人たちがいたのです。

 当時の文化では成人男性だけを数えていました。(他の福音書では、はっきりと男性だけで5千人と記されています。)7節の会話の中で、200デナリのパンと言われています。200デナリは200万円に相当しますから、それでも足りないとなると、女性、こどもも合わせて、少なくとも2万人以上はいたと考えられています。そこにはいた、けれど、数に入れられない人、尊ばれない人が多くいたのです。

 

 みなさんは、自分自身をこの数えられなかった人たちのように感じることはありますか?

 

 ユダヤ社会では、性別や家柄、出生地などで、生まれながらに扱いに差がつけられることがあります。また、財産、健康、能力、知力、人脈、それらが人の価値を量る基準にもなり、それらを持つ人が優遇され、優先されます。(それらは神の祝福と結びつけて理解されていたからです。)逆に、それらを持たなければ、関心を払われず、尊ばれず、目や耳を傾けられないのです。

 このユダヤ宗教社会ほど、露骨ではないとしても、基準は少し違っていたとしても、これは私達も体験する場合があるかもしれません。

 また、一時期、優れたものを持っていても、思いもしなかった問題に直面したり、病を得たり、加齢による衰えによりやがては持っていたものを手放し、以前のようには、尊ばれなかったり、数に入れられなかったりする、そんな体験をいずれはすべての人がすることになります。

 

<笑われたパンを選ぶキリスト>

 もちろん私達にも僅かなものがあります。四福音書の中で唯一、少年が登場し、5つのパンと、2匹の魚の持ち主が少年であったことが分かります。けれど、アンデレは、少年のもつ食物を見て、まるで役に立たないものかのように、「それが何になりましょう。」(9節)と言うのです。

 

 私達は数えられない存在かもしれません。わずかの賜物や力が有るかもしれませんが、人間の目では「それが何になりましょう。」と鼻で笑われてしまうかもしれません。自分自身でも「これが何になりましょう。」と自嘲するかもしれません。

 

けれど、11節を見たいのです。

11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。

 イエスは、数に入れられなかった少年の、「それが何になりましょう」と嘲られたパンを取るのです。 ピリポが持っていた、200デナリではなく、少年のパンです。そして、数えられなかった少年のパンを取り、感謝をささげ、配りました。

 

 私達の神様は、200デナリでなく、少年のパンを選ぶ方です。人々が、関心を払わず、「それが何になりましょう。」とあざ笑うパンを選び、豊かに用いるのです。

 

 私は、立派でない、優れていない、特別でない、と自分で自分を諦めないでください。人の視点も大切ですが、キリストの視点を忘れないでください。

 

 みなさんは「聖なる」という言葉の意味をご存知でしょうか?「聖い」と聞くと、なにか特別で、立派で、光輝き、傷も汚れもない、そんな人や物を思い浮かべないでしょうか?
 けれども、それは「聖なる」や「聖い」の正確な意味ではありません。「聖い」とは、「神のために取り分けられた」、という意味です。 外見や、有用性や、金銭的価値、などは全く関係ないのです。

 

 神は、この数に入れられない少年を、その笑われたパンを、尊び、受け取り、善い業に用いられた。この少年は、このパンは、「聖なる」存在なのです。

 

 そして、私達は、あなたは、同じく、神に尊ばれ、選ばれ、取り分けられた「聖なる」存在なのです。自己評価や人からの評判?過去の失敗や現在の問題?病や欠けや過ち?関係ありません。イエスが、あなたを、選ばれたのです。

 

27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわり、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。(第一コリント1章)

 

そして、彼らに呼びかけるのです。「聖なる者たち」(第二コリント1章1節:新共同訳)と。

誰がなんと言おうが、みなさんは、神様が選び、尊ぶ、大切なお一人お一人です。そして、キリストによって他の人の心を、魂を、養い生かす、特別な存在なのです。

 

<数えられなかった存在により生かされる>

 10節には、「男たちはすわった」とあります。彼らは数えられた人たちです。その彼らが、数えられなかった少年のパンによって「十分食べた」(11節)、満腹したのです。

 数に入れられなかった存在により、数に入っていた者たちが生かされたのです。尊ばれなかった人を通して、尊ばれていた人たちが養われた、これがキリストの教会です。

 

 教会の原型である、イエス様の食卓も、数えられないものがたくさんいました。病気を持つもの、貧しいもの、宗教戒律を守らない(守れない)もの、身体を売って生きる女性、けれど、その人たちへの主イエスの姿勢を通して、その方々が神と出会う姿を通して、最初は彼らを軽んじていた弟子たちは、神の選びの不思議さと、愛の深さを知っていったのです。そして、自分もまた愛され受け入れられたに過ぎないことを知り、謙遜にさせられていきました。数えられない人を通して、教会は、キリストの価値観を教わり、歩み方を変えてもらったのです。だからこそ、ローマ帝国においても、悼む人や悲しむ人を尊び、共に生きる姿勢を人々が見て、多くの人が教会に集い、キリストと出会っていったのです。

 

 私は牧師をしながら、8年間幼稚園の園長をしていました。小さく、弱い、こどもという存在を通して、特に、生きづらさを抱えたこどもの存在を通して、生きる意味を教えられ、神の選びの不思議さを痛感し(福音の真髄を教えられた気がします)、物事の見方や価値観を大きく変えられました。私は自分が数に入れようとしていなかった存在から、教えられ、養ってもらい、変えていただきました。

 現在は、性的マイノリティと言われる方々を通して、学ばさせていただいている最中です。

 

 みなさんにとって数に入らない人はいるでしょうか?関心を払わず、価値を見出さず、目や耳を背けていたい存在は有るでしょうか?何かに劣る人でしょうか?あなたが重視する基準を満たさない人でしょうか?自分とは違う国、地域、思想、宗教の人でしょうか?立派でない人、問題を抱えた人、過去に失敗のある人かもしれません。マイノリティの人、例えば、性的少数者の方かもしれません。

 

 けれど、イエスはその方々のパンを喜んで受け取り、素晴らしいことをなさる方、私達の狭くて小さな心と頭を遥かに超えた方です。

 イエスは、少年のパンを取り、男たちに(立場上優位にある者たちに)すわるように促しました。そして「男たちはすわった」のです。腰を下ろし、「それが何になるでしょう」と笑われた少年のパンと向き合ったのです。そして、それを用いるキリストによって、身体にも、心にも、いのちを得たのです。

 教会がそのように、互いに謙遜になり、互いに尊び合い、互いに教えられあい、互いに生かされ変えられる場であるのように、願っています。

 あなたは何に対して、どのような方々に対して、腰を下ろすようにと、促されていますか?

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