7月30日のメッセージ

おざく台教会20237月30日「キリストと出会う⑬」

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<聖書:ヨハネの福音書5章>

8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった

10 そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」 11 しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」12 彼らは尋ねた。「『取り上げて歩け』と言った人はだれだ。」 13 しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。 14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないもっと悪い事があなたの身に起こるから。」

<恵みの世界に生きる> 

 みなさんは、様々な物事を考える時に、判断をする時に、大切にしている基準が何かしらあると思います。自分の直感、経済的損得、周囲の目、誰かの声、こども達の将来、環境への影響、経済の活性化、両親・親族からの教え、思想信条、宗教的戒律、などなど。

 キリスト教のプロテスタント派は、宗教改革の歴史から、聖書を大切にします。生活の規範として考え、生活の隅々にまで、聖書に沿って歩もうとする流れです。(その意味では、イエス様の時代のパリサイ派・宗教家にとても近い立場です。)

 

 聖書に、神の言葉に沿って歩もうとする、本当に素晴らしいことだと思います。けれど、宗教にも、聖書にも熱心であったパリサイ派が、宗教マウント社会を作り上げ、問題を抱えた人を見下し虐げ、ついにはイエス様を殺したように、本来良いものである聖書を、私達は誤って用いてしまう危険があるのです。(正しい宗教の名のもとに、キリスト教が行った虐殺は、ローマ帝国の迫害の比ではありません。)

 

 聖書は今日の日本に生きる私達のために(for)も書かれてはいますが、今日とは、時代も文化も価値観も全く異なる当時の人に向けて(to)書かれているのです。そういった時代・地域・文化の背景を無視して読んでしまうなら、キリストの教えとは、全く違う宗教へと変わり果ててしまいます。例えば、教会は、聖書にあるからと、奴隷制度を肯定してきました(当時の奴隷とは医者や教師もいて近代の奴隷制度とは意味合いが全く違うのです)。教会は聖書にあるからと、女性、障碍を持つ方々、他宗教、様々な少数者を虐げるという過ちをおかしてきました。

 

 宗教を、信仰を、聖書を理由に、誰かを傷つけたり、また誰かから深く傷つけられたり、という経験が私達にはあると思います。神様の言葉は大切にしたい、でも、誰かを傷つけたり、傷つけられたくない。では、私達はどのように聖書と向き合えばよいのでしょう?

 

 青山学院大学宗教部長の塩谷直也教授はその著作の中で、信仰者にとっての最高法規・憲法とは、いつの時代も「イエス・キリストの存在とその言動」であるとします。

 

 聖書の一部を抜き出せば、沢山の人が「聖書的に」失格とされ、片隅に追いやられ、神の祝福から漏れてしまいます。教会も沢山の人を苦しめてきました。

 けれど、同じ教会が、信仰者が、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」と言われ、立場の弱い人や少数者と共に歩まれたイエスの姿と言葉を胸に、女性や障害を持つ方や、少数者、虐げられた人の地位向上に貢献していきました。聖書の一つ一つの言葉を大切にしつつ、まことの神の言葉であるキリストの言動を最高法規とし、従っていったのです。

 

 少し、長くなりましたが、宗教は、信仰は本当に素晴らしく、かけがえのないものではありますが、多くの人が心配するのは、その危うさにあります。ですから、自戒も込めて、今日の聖書の話を読み、自分を、

人を、キリストの恵みの視点で、見つめる本当の宗教者になりたいのです。

 

 

<宗教家の因果応報の視点、キリストの恵みの視点>

 

 当時の文化、聖書の理解においては、病気・貧困・生涯・事故・その他様々な生活に不利に働くような物事は、罪の結果(罪に対する神からの罰)と考えられていました。自業自得、因果応報、と言う価値観です。(もちろんそう読める箇所もあります、けれど決してそれが全てではないのです。)

 

 ですから、この38年間病に苦しんでいた人も、何かの罪を犯したに違いないと、見下されていたのです。他にも9章には生まれつき盲目の人が出てきて、弟子たちですらイエスに「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」(9章2節)と尋ねています。

 

 なんと冷たく、暴力的な言葉でしょうか。あなたは、悪いことをしたに違いない、隠された罪を神に罰せられたのだ、お前は罪人だ、報いとして臥せっていろ、盲目のままでいろ・・・このような社会的にだけでなく、人格的にも人を踏みつけにする言葉が、聖書を根拠に平気で投げつけられていたのです。

 

 けれど、聖書の言葉さえも超える方、ヨハネが、「はじめにことばがあった。」(1章1節)として示するまことの神の言葉イエス・キリストが、ご自身でも「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(39節)と言われる方が、盲目の人に対して「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」(9章3節)と言うのです。

 

 人々がお前が罪人だ寝ていろ、罪の罰で苦しめ、と言おうが、安息日なのでこの日は床を取り上げてはいけないと言おうが、イエスは起きて、歩きなさい、というのです。

 ヨハネの福音書には、8章で、聖書に反する罪のために石打刑で殺されそうになる女性が出てくる。けれどイエス様は、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(8章7節)と言い、誰も石を投げられないと、わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今から決して罪を犯してはなりません。」(11節)と放免してしまう。

 

 宗教家も、私達も聖書を読み、一生懸命理解しようとします。けれど、どうか見失わないでください。イエス様の言動こそが、私達の最高法規、信仰の本当の基準なのです。

 

 

<恵にとどまる>

 この話の不思議なところは、イエス様は再び14節で、彼を見つけ出し、もう一度注意を与えるのです。

14 その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないもっと悪い事があなたの身に起こるから。」

 これを、まるでイエス様が宗教家と同じ理解であるかのように、正しく歩まないと神に厳しい罰を当てられ救われないぞ、という理解をする人もいますが・・・(そういう説教を聞き、唖然としました)

 

 この場面は、癒やされた人が、パリサイ人と話した後に、わざわざイエス様がこの人をフォローしに来たということです。パリサイ派と話すことで、この人が大切なことを見失うのを心配したのです。

 イエスの言う罪とは、宗教家の罪とは違うのです。宗教家の言う罪は、戒律への違反行為です。

けれど、イエス様の言う罪とは、いつも心の、魂のあり方、恵みの神への姿勢なのです。

 

 この人は神の恵みにより、奇跡を体験した。自分は神に罰せられているのでも、呪われているのでもなく、神に憐れまれ恵みを受けたのだと知りました。

 それなのに、安息日のことで、宗教家が彼を不安にさせたのです。その奇跡は、安息日に、神の戒めに反していると、あなたは悪いことをしたのだと。

 

 せっかく神の力を体験したのに、恵みから離れるなら、宗教家に惑わされ、昔の基準に戻るなら、彼は自分を責め、さらに苦しむことになるのです。

 

 ですから、私達は、彼が直前に行った言葉を大切にするのです。

「私を直してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と言われたのです。」(11節)

 

 人がなんと言おうが、自分で自分を疑おうが、イエスが何をしてくださったか、イエスがなんと言われたかが大切なのです。

 イエスは、罪人とレッテルを貼られた人と歩みました。イエスは、病人、障碍をもつ人、人生に失敗した人、宗教的には歩めない人と食事をともにしました。女性、こども、身体を売って生きる人達、この人たちこそ、神の国に入るのだと宣言されました。

 そして、傷や穢を持つ私達に、「私の目にはあなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と誓ってくださった。

 

 私達はこの方の恵みによって、救われ、愛され、生きる意味を見出し、この視点によって、自分を、人を見つめ続けるのです。 キリストに、キリストの恵みにとどまる、私達で、教会で、あり続けられますように。

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