7月23日のメッセージ

おざく台教会20237月23日「キリストと出会う⑫」

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<聖書:ヨハネの福音書5章>

 1 その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。 2 さて、エルサレムには、羊の門の近くに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、五つの回廊がついていた。 3 その中に大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた。(異本:彼らは水の動くのを待っていた。 4 主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初に入った者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである。)
 5 そこに、三十八年もの間、病気にかかっている人がいた。 6 イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」 7 病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」 8 イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」 9 すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。

<あきらめ臥せっていた心> 

 先日、第169回芥川賞の発表があり、市川沙央さんの「ハンチバック」が受賞しました。主人公は疾患先天性ミオパチーという病の40代の女性であり(著者自身も同じ病)、今日の聖書の箇所の38年間病に臥せっていた男性と重なるもの感じます。

 

 「ハンチバック」の主人公は、病でどんどんと自分の身体が壊れていく状況の中でも、学び続け、読み続け、考え続け、論文をはじめ様々な言葉を紡いでいきます。

 一方今日の聖書の人物は対照的です。彼は小説の主人公とは逆に、諦めきっているのです。この男性は、外側では主人公の女性に重なる面もありますが、その内側においては、私達に重なるところも多いような気がします。困難に直面し、最初は、抵抗しますが、次第に心も魂も疲れ果て、やがて、倒れ、伏し、大切な物事を諦めてしまうのです。

 

 彼がいた場所は政治と宗教の中心都市エルサレム、旧約聖書モーセ五書を象徴する五つの回廊です。けれど彼は臥せったままです。荒野の40年(ある意味では38年:申命記2章14節)を象徴する、38年もの間病気で臥せっているのです。ユダヤ教の教えも、ユダヤ宗教社会も、彼の身を、心を、魂を、救えませんでした。(むしろ病は、本人の罪のせい、と理解されていたため、余計に彼を苦しめたのです。)

 

 そして、別のところに、他宗教に、他文化に救いを求めるのです。ずっと聖書に名前だけが出てくる存在だったベテスダの池ですが、19世紀に発掘されました。その池は、長さ120M、幅50M深さ10Mにもなる巨大な池で、エルサレム神殿などで使用する大量の水の確保のために造られたと考えられています。

 そして、驚くべきことにすぐそばには、ギリシャ神話の医学の神、アスクレピオスの神殿が建っていて(WHOのマークでごらんになったことがあるかもしれません)、病人が治癒を願って訪れていたようです。宗教社会のユダヤ教においても、ローマやギリシャの文化に影響を受け、様々な神々に頼る人もいたのです。

 この人は、自分の育った宗教で救われずむしろ見下され、癒やしや希望を求めて、他の多くの人と同じように、この池に行き着いたのです。(教会が、罪人だと人を責め、見下すなら、人々は神から離れ、別のところに救いを求めるのです。)

 

 けれど、そこにあったのも(後の挿入解説文である3〜4節にあるように)まじないじみた治癒法でした。社会や宗教から手が差し伸べられず、見捨てられたような人が集まる場所、そこに彼は行き着いたのです。ベテスダはヘブライ語で「あわれみの家」という意味です。しかしそこは失望が支配し、「あきらめの家」となっていました。

 

 もちろん、ユダヤ宗教社会も完全に捨てたものではありません。善行を大切にしていましたから、命をつなぐだけの食物は与えられていました。その意味ではあわれみの家かもしれません。けれど、そこに臥

せる人々は、見下され、生きていく意味や、気力は失っていたようです。

 ですから、イエスがそこを訪れ、彼に出会って「よくなりたいか」(6節)と尋ねたときにも、彼は「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」(7節)と、不平不満を述べるだけでした。諦めが彼の心を支配していたのです。

 

 私達と彼とは状況が違います。けれど、同じような姿勢や心になっていないでしょうか?状況に、人に、自分に、希望を失い、心や魂が力が尽き果て、諦め臥せっていないでしょうか?宗教的な基準で裁かれ、責められ、見下され、どうせ自分なんかと、考えていないでしょうか?イエスから「よくなりたいか」と尋ねられても、新しく歩むことを恐れたり、どうせ私も、私達の大切な人も、目の前の状況も変わらないと、諦めたりしていないでしょうか?変わるかもしれないが、もう一度立ち上がる力が心にも、魂にも残されていない、ということはないでしょうか?

 

<あきらめないキリスト>

 彼の心は、諦めと、不平不満と、自己憐憫で満たされていました。信じようとする力も残されていませんでした。けれど、イエスは言うのです。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」

私達が諦めても、イエスは私たちを諦めないのです。自分で自分が信じられなくても、キリストは私たちを信じてくださるのです。私達の諦めや不信仰を超えて、私達に関わるのです。

 

9節「すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。」

 これは聖書の中でも驚くべき箇所です。ほんの小さな信仰ゆえに奇跡を体験する記事はあります。けれど、信仰の欠片もなくても、彼は驚くべき体験をしたのです。

 彼のうちに欠片ほどの力も、希望も、信仰もなくても、彼のうちに何もなくても、ただただ神の憐れみのゆえに、彼は神の力を体験したのです。

 もちろん信仰、応答、正しい理解は大切です。けれど、私達の神は私たち側のなにかでなく、神の側の憐れみによって私たちを愛し、関わり、救う方です。

 

 あきらめたほうが、臥せっていたほうが楽という場合もあるかもしれません。どのような生涯であれ、生きる苦労はあります。けれど、それは神が「生きよ。」(エゼキエル16:6)と言って「これが道だ、これに歩め(イザヤ30:21)私と言って、私たち一人ひとりに与えてくれた生涯なのです。

 私達の生涯は、伝記や小説として記されることはないでしょう、けれどそれぞれが生きるべき、物語があります。文字という形を取らないかもしれませんが、私達の生涯は、私達一人ひとりが紡ぎ出すコトバなのです。

 

 神が期待を込めて差し出してくださった生涯を懸命生きることにこそ価値があり、小説にまさるとも劣らない、生きた書物として、人の心に訴えかけ、響くのだと思います。

 

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