7月16日のメッセージ

おざく台教会202379日「キリストと出会う

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<聖書:ヨハネの福音書4章>

 43 さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた。 44 イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない」と証言しておられたからである。 45 そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した、彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。

 46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。 47 この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、イエスのところに行き、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。 48 そこで、イエスは彼に言われた。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」 49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」 50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。 51 彼が下って行く途中、そのしもべたちが彼に出会って、彼の息子が直ったことを告げた。 52 そこで子どもがよくなった時刻を尋ねると、「きのう、第七時に熱がひきました」と言った。 53 それで父親は、イエスが、「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして、彼自身と彼の家の者がみな信じた。 54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。

<狭めることが「信仰」?> 

 先日、若い世代にも人気の有名人が亡くなるニュースがありました。理由は明確ではありませんが、その方の性自認や性表現、人生の選択に対する、誹謗中傷が影響しているのではないかと言われています。

 言葉は人を活かしも、殺しもします。意見を持つのは自由ですが、言葉を口に出す前に、人にどのような影響を与えるか吟味され、表現や時と場所が選ばれ、愛と配慮を持って語られなくてはならないのです。「5 舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きな森を燃やします。6 舌は火であり、不義の世界です。」(ヤコブの手紙3章5〜10節)

 さらに悲しむべきは、亡くなった方、(あえて強い言葉を使いますが)舌によって命を奪われた方に対して、死後にも上から目線で自業自得的だと切り捨てるような発言をするキリスト教の方々であり(そして自分たちは正しい信仰を持っているそうです)、聞いていて、とても悲しく、暗い気持ちになりました。「信仰」とはそのような、高慢で、冷たく、弱い立場の人をあざ笑うものなのでしょうか?

 

 そんな時、学校の図書館で「『神様』のいる家で育ちました 〜宗教2世な私たち〜」というコミックエッセイを見つけました。エホバの証人、統一教会、創価学会、崇教真光、真如苑、幸福の科学、そして、原理主義的なキリスト教会、いろいろな2世たちの体験談が記されています。

 どこの家庭も、親がとても宗教活動に熱心で、一生懸命に宗教団体や経典が提示する教理・信条を厳格に信じ、守い、行うのです。まさに強く、篤く、熱心な「信仰」でした。そして、その「信仰」に沿わない人は、悪魔とか、地獄とか、呪われている、などと家族であっても切り捨てられるのです。

 

 この2つのことを考えていて、浮かび上がってきた言葉は、「狭さ」です。二言目には「ねばならない」、「してはならない」と言い、限られた狭いあり方や、考え方、生き方に、自分を、人を押し込もうとし、それ以外を否定し、見下すのです。正しさや基準は大切です。けれど、思い返したいのです。イエス様の生き方は、あり方は、イエス様の言う意味での信仰はどうであったのかを?

 

<「信仰」と「信頼」>

 信仰とはギリシャ語で「ピスティス」という言葉、旧約聖書ヘブライ語の「エムナー」に対応しています。エムナーとは「確かである、堅個である、信頼できる」といった意味の言葉であり、私たちが祈るアーメン(確かです、という同意の意味)も同じ言葉です。つまり、信仰とは、私達の確信や熱心さの度合い、作成した信条の立派さではなく、相手側の、神の側の確かさへの信頼なのです。

 イエスは、何かの経典を指して、「あなたはこれを信じますか?」とは尋ねませんでした。ご自身を指して、「あなたはわたしを信じますか?」と尋ねたのです。私達の願望や、熱心さや、献身度や、理解度、そういったものは(大切かもしれませんが)、それは私達の側に比重があります。そうではなく、神の確かさと真実に、憐れみと慈しみの深さに、愛の大きさと広さに、「信頼」する、それが信仰なのです。

 

 そして、当時の宗教社会が見下し、切り捨てていた人々の中に、飛び込んでいきました。神に罰せられると考えられていた人々の身代わりに、神自らが十字架についてしまいました。イエス様は、宗教家の小さい頭の中には、私達の狭い心のなかには、決して収まらないのです。

 (アブラハム、モーセ、ヨブ、など聖書の人物たちは、神の、その思いの大きさに圧倒されていきました。神の大きさを認め、信頼し応えていくことが、彼らの信仰だったのです。)

 

 つまり信仰とは、私達の頭で理解できる何かを信じることではなく、私達の狭くて硬い頭の中に押し込めるには、大きくて高すぎる考えを持った神様を、私達の小さく狭い心のなかに閉じ込めるには、広くて深すぎる神様を、認め、信頼することです。

 信仰とは、不思議なもので、キリストを知れば知るほど、出逢えば出会うほど、閉ざされていくのではなく、広げられていき、何かを悟り私たちを高ぶらせるのでなく、私達の頭に収まらない神の大きさを悟りいよいよ私たちを謙遜にさせるのです。

 

 今回のお話の前に、人々は、エルサレムでイエスのした、しるし(奇跡)を「見て」ていました。「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。」(ヨハネ2章23節)ですから、イエスのしるしを見て、理解し、大歓迎したのです。

 けれど、ヨハネの福音書では大勢の人がイエスを信じ、弟子となってイエスの話に耳を傾けても、彼らの頭や心に収まらない、気に食わないことがあると、すぐに「これはひどい」と言って離れていく場面が出てきます(6章66節)。ですから、次の2章24節で、「イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからである。」(24節)と続きます。イエスは彼らの願望や都合に基づいた、彼らの側に比重の(中心の)ある、狭く閉ざされていく方向性の「信仰」を知っておられたのです。ですから、彼らがイエスを担ぎ上げ、思うようにしようと、おだて、持ち上げても、それを拒んだのです(6章15節)それは宗教ではありますが、イエスの願う信仰とは違う、大きな神への信頼とは違うのです。

 その頃、奇跡の噂を聞きつけた、王室の役人が、危篤状態の息子を癒やしてほしいと懇願します。ところが、イエスは全てをご存知のはずなのに、息子のことで気も動転し必死にせがむ父親に酷いことを言うのです。「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」(48節)

 確かに人は、目で見て、頭で理解し、心で納得し、自分の枠内に、イエスを押し込もうとします。イエス自身にではなく、自分自身に、イエスが起こす奇跡とその恩恵に、重心があるのです。

 でも、それは、他の群衆に言えば良いのです。役人は、息子を治してほしいのです。イエスがキリストかどうか、役人がそれを信じるかについては、息子が治って、また別の機会にゆっくりとでも良いでしょう。焦っている父親は必死にせがみます。 49 その王室の役人はイエスに言った。「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」

 

 きっと、イエス様はこの人の心をご存知で、この人を見込んで言ったのだと思います。

 イエスは、役人の願い通り一緒に行かずに、一言だけ告げます。「50 イエスは彼に言われた。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。」

 私なら、引きずってでも、縛り上げて担いででも、イエスを連れて行く。それなのに、イエスは奇跡を見せるのではなく、ただ言葉をかけた。あなたが、理解でき、納得し、満足する、そのようなものとしてわたしを捉えないでね。わたしは、あなたの考えや思いを超えて、あなたに良くしますよ、といでも言っているかのようです。そして、彼はそのことばを信じて、帰っていったのです。

 

 言葉を信じるとは、その言葉を発した人に信頼することです。 この役人はイエスの言葉を信じて、イエ

スがきっと良くしてくださると信頼して、イエスは自分の考えや心よりさらに大きいのだと信頼して、帰っていきました。そして、後で、こどもの奇跡的な回復を知ったのです。

 

 ヨハネの福音書では、7(完全数)という数が大切にさています。しるし、としての奇跡が7つ記されています。他にも、奇跡はたくさん行いました。けれど、この7つが代表的なものとして挙げられています。もっと、華々しい奇跡でもいいのに少し地味だな・・・

 けれど、同じカナの結婚式での水をぶどう酒に変えた奇跡と、今回の奇跡、この2つの場面には、自分の頭を、心を、超えた神様を認めた人達が出てきます。だからこそ、ヨハネは7つの奇跡のうちの2つに、この小さな出来事を抜粋したのだともいます。

 

 私達の考えをよりはるかに大きく高い考えをおって、思いを超えてはるかに広く深い愛と憐れみの心を持って、私達に、そして、私達の隣の人に、良くしてくださるかがたいるのです。

 

「9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。10 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ書55章)

 

 その方への信頼に支えられ、その方によって、考えも思いも広げられながら、その方のように、一週間を歩むことができますように。

 

 

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