6月4日のメッセージ

おざく台教会2023年6月4日「キリストと出会う⑥」

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<聖書>ヨハネの福音書2章

13 ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。14 そして、宮の中に、牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがすわっているのをご覧になり、15 細なわでむちを作って、羊も牛もみな、宮から追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、16 また、鳩を売る者に言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い起こした

18 そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。22 それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

<何より大切なもの「めぐみ」>

 先日川越の親族に会いに行ったのですが、近所に徳川家光にゆかりのある喜多院という場所がありまして、御朱印を取り扱っていました。手書きで美しく、旅や外出の記念になりますし、特別な場所や特別な日には、数時間待ちになるそうです。また、以前吉祥寺のアンティークショップで免罪符(贖宥状)が売られていました。中世では人々がこぞって求めたものです。手に取り、肌で触れることの出来る約束の印、そのためなら、労力もお金も人は惜しみません。これだけ人気なら教会でも出来ないかな?良いきっかけになるかな?とも思いましたが、なにか大切なものを見失いそうな気もしました。

 

 それが行き過ぎて、壺を買ったり、お祓いをしたり、水を買ったり、となっては大変ですが、それらには、私は犠牲を払った、という確かな実感が伴うのです。ものだけではありません、労力や時間、お金や理解や確信、そういったものを差し出したのだから、これで神の恩寵が得られるに違いないと、私たちは確信し安心できるのです。交換条件というのは、私達の心によく馴染むのです。(そして宗教はそれを利用し、思い通りに私たちを動かそうとします。)

 

 けれど、キリストが教えたのは、交換条件とは違う、一方的に差し出されたもの、「めぐみ」でした。めぐみとは、贈り物を意味する言葉です。贈り物は、受け取り手が買うのでなく、ただ無条件に受け取るだけです。代価は、犠牲は、送り手が支払うのです。

<めぐみの日の出来事>

 この出来事は「宮きよめ」と名付けられ、優しいイエス様がお怒りになり大暴れした(と見える)大変ショッキングな出来事です。いつものイエス様なら優しく諭しそうなものですが・・・(教育の世界には「怒るは感情、叱るは愛情」という言葉がありまして、これが感情に任せた怒りの爆発か、人々の目を覚まさせるために叱っているのかは分かりませんが)、身の危険を犯してまでイエス様があえてこの出来事を起こしたの考えるには、これがいつ起こったかが大切です。

 これは過ぎ越しの祭りで起こりました。エジプトの奴隷状態から、神が解放してくれたのを感謝する日です。人の努力でなく神の一方的なめぐみにより、救われた日です。すでに起きた出来事を喜ぶ日、神から受けためぐみに感謝するための日です。

 けれど人々は、生贄を捧げます。生贄も本来は、出エジプトを記念し、神の恵みを受けたことを想起するもの、感謝を表すためのものでした。けれど形骸化し、自分を立派に見せるために、だれが神の祝福にふさわしいのかを示すために捧げられることが多かった。商売人や、両替人はその心理を利用し金儲けの機会だ

とせっせと稼ぎ、宗教家はその利益を吸い上げて私腹を肥やしていた。

 もちろん本来の意味を忘れず真摯に感謝していた人もいたでしょう・・・けれど大部分において、神の無条件の恵みが蔑ろにされ、豊かさや立派さ、支払った犠牲の交換条件として神の恩寵が約束され、貧しい者、問題を抱えた者は、蚊帳の外だった。それは過ぎ越しの祭りの精神とは、正反対です。

 キリスト教とは、めぐみの宗教です。私達が神に何をするか、神に何かを差し出して(お金や、貢献や、立派さや、信心深さや、悟りなど)交換条件として報いを受けるのではないのです。神が私達に何をしてくれたかが大切であり、神が差し出したものを、ただ無条件に受け取るのです。

 それを間違えた時、この神殿礼拝のように形骸化したり、カルト宗教のようになったり、キリスト教のようであっても冷たい律法的な宗教へとなってしまうのです。

 以前、この箇所を根拠に、教会でのバザーはいけない、という主張を聞いたことがあります。でももしイエス様が今私達のところへ来たら、きっとバザーの商品ではなくて、また、私達の愚かさや、過去の過ちを叱るのでもなくて・・

 組織への時間や金銭での貢献、知識や理解を誇る態度、立派さや地位による優劣、そういった、神からの恩寵を交換条件で得ようとするものを悲しみ、叱られるのだと思います。

<めぐみの十字架>

 この出来事は「宮きよめ」とありますが、イエス様は宗教の堕落を嘆き、より良い宗教に修正したかったわけではないようです。(宮は、神殿を囲む広い範囲を指します。)むしろこの後で、神殿を壊してみなさい、と言い、やがて神殿は壊れますと予告します。(実際紀元70年にローマにより滅ぼされます。)

 究極的には宗教組織や、宗教施設が無くなっても良いのです。それ自体は善いものですが、神の恵みはそれ以上に大きく、大切なのです。 

19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」・・・21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。 

神殿は神との出会いの場です。人は、神殿という建物ではなくイエスを通してこそ神と出会える、神の恩寵は交換条件の犠牲ではなくイエスを通して無条件に私たちに差し出されている。イエスは、十字架にかかり、3日目に復活された。犠牲は、いのちの代価はキリストが支払われたのです。

 私は教会の外でこそ祈ります。職場に向かう電車や車の中で、ジョギングや散歩をしながら、時には授業を教えながら。時間や場所は問われていないのです。

 私は失敗をした時こそ、自分が情けない時こそ祈ります。立派な自分や清く汚れない心でとは、神は言わないのです。

 神は、これをしなければならない、あれを差し出さなくてはならない、とは言わず、ただただめぐみにより、一方的に私達を招きます。私達が何かを差し出そうとすると、それらをひっくり返し、追い散らします。どうか忘れないでください。私達は、あなたは、ただ一方的に愛され、赦され、受け入れられ、招かれているのです。神はお金も、犠牲も、立派さも、求めていないのです。私達の神はめぐみの神です。

<今週の黙想>詩篇51篇を読み、罪も傷も痛みも愚かさも抱えたままで、神の前に出て、祈ってみてください。

 

 

 

 

 

<詩篇 51篇> 指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバのもとに通ったのちに、預言者ナタンが彼のもとに来たとき

1 神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。

2 どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。

3 まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。

4 私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行いました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。

5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

6 ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。

7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。

8 私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。

9 御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。

10 神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。

11 私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

12 あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。

13 私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。

14 神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。

15 主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。

16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。

17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

18 どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。

19 そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、雄の子牛があなたの祭壇にささげられましょう。

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