毎日の聖書5月29日〜6月4日

おざく台教会毎日の聖書 5月29日~
1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。
5月29日(月)イザヤ書9章
7節「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
 私達の神は熱心な方です。私達が、無気力で、無関心で、罪や悪に向く時も、神は私達や周囲の救いのため熱心です。救いを成し遂げてくださる神に安んじつつ、私達人間が感謝をもって人が応えていくのを、歴史の教会は大切にしてきました。あなたはどう応えましょうか?
5月30日(火)イザヤ書10章
20節「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。」
アハズ王がアッシリアに頼ったように(Ⅱ歴代誌28:21~22)、自分も周囲も損なうものを頼りにすることはありませんか?自分でも、人でも、団体でも、物でも、思想でもなく、神に頼るとはどういうことでしょうか?7。あなたの今日一日の歩みで表現してみてください。
5月31日(水)イザヤ書11章
6〜9節「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」
キリスト教徒を自認することは簡単です。しかし私達の周囲に6~8節のような平和はあるでしょうか?私達と過ごす人は、平安を得ているでしょうか?本当の平和は、心からの平安は、主を知ることから、十字架のキリストを見上げることからはじまるのです。
6月1日(木)イザヤ書12章
3節「あなたは喜びながら水を汲む。救いの泉から。」
 キャンプファイヤーなどで歌う「マイム(水)、マイム」という曲、歌詞はヘブライ語で、まさにこの箇所です。あなたはもう、あなたの内に泉を得ています(ヨハネ4:14)。祈りを、黙想を、賛美を通し、好きなだけ水を汲めるのです。今日、時間を取って、あなたに与えられた救いの泉から、水をくんでみてください。
6月2日(金)イザヤ書13章
19節「こうして、王国の誉れ、カルデヤ人の誇らかな栄えであるバビロンは、神がソドム、ゴモラを滅ぼした時のようになる。」
圧倒的な力と富と文化を誇った超大国バビロン。しかし、やがてはペルシャに滅ぼされます。あなたがこの世界で恐れたり、誇ったりする「バビロン」は何でしょうか?それもまた永遠には続かないのです。永遠の方はただお一人だけなのです。(イザヤ40:28)。
6月3日(土)イザヤ書14章
13節「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。」
これはバビロン王の言葉であり、伝統的に堕落した天使の言葉とも理解されました。しかし、これは何より私たちの内なる心の声でもあります。私達のうちには、バビロンの王が、ヘロデ大王が、偽善の宗教家が住んでいます。
 一方で、キリストはわたしたちのために天から下りました。十字架というどこよりも低いところまでも下ってくださいました。私達は高慢になることではなく、神と人とに、謙ることを求めたいのです。低いところにこそ、キリストはおられるのですから。
6月4日(日)イザヤ書15章
9節「モアブののがれた者と、その土地の残りの者とに獅子を向けよう。」
 イスラエルののがれた者、残りの者への神の働きは救いでした(10:20~22)。しかし、モアブの残りの者への場合は獅子でした。
 その神の憐れみをイスラエルは切に求めたのです。赦しの手は、救いの手は、いつも、いつでも差し伸ばされているのです。私達の善行や貢献など必要ないのです。神は子のために命をかける親のように、いつも私達に手を差し伸ばしているのです。どうか一刻も早く、応えてください。
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