4月16日のメッセージ(ヨハネの福音書1)

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20234月16日「キリストと出会う①」 

 

<聖書> 

1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。2 この方は、初めに神とともにおられた。3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 

 

9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
 

 

<キリストに出会う> 

 現在放送しているNHK番組の「100分de名著」今回は、新約聖書の福音書が取り上げられ、批評家・詩人の若松英輔さんが講師です。公共番組の性質上、誰でも違和感なく受け止められるようにとの配慮でしょうか、奇跡的な事柄も、内面的な出来事として解釈するなど(例えば、5000人にパンを配る奇跡は、キリストの言葉という“いのちのパン”により、人々の心が満たされた、という理解)「それは無理矢理では?」と思うこともありますが、聖書は、信仰の有無に関わらず、だれもが読むことができる、キリストと出会うことができるのだと強調されていて、とても良い内容だと思いました。 

  

 2023年度は、キリストと出会う、というテーマで、ヨハネの福音書の様々な人物とキリストとの出会いを通して、私達もよりキリストを知り、出会っていきたいと願っていますが、最初に著者のヨハネが、私達にぜひとも出会ってほしいと願っているキリストはどのような方かが、記されています。 

 

 

<私達を創造した方> 

 ヨハネは、イエス・キリストを紹介する時に、「ことば」として紹介しました。この「ことば」(ギリシャ語でロゴス)が、世界の創造の前から、神とともにあり、神であり、この世界を創造された、というのです。このヨハネ1章は、1週間の出来事として記され、創世記の7日間で神が世界と生き物を創造された出来事と関連付けられ、この世界を造った方として、キリストを紹介します。 

 この「ことば」(ロゴス)とはただの単語ではなく、当時の哲学で、世界に内在する神的原理として、世界の創造の動因として、みなされていました。でも、ヨハネはより踏み込んで、私達はただ存在しているのではない、人格のある存在により、愛と期待をこめて造られ、この世界に送り出されたと言うのです。ですから最初のヨハネの福音書の翻訳は、「ハジメ二 カシコキモノゴザル」でした。 

 

 私は現在、中学2年生の理科で「物質のなりたち。原子・分子」という単元を教えています。確認されている原子は118種類あり、原子核と電子からなり、それらは素粒子から出来ている。宇宙の始まりは、138億年前のビックバンで、素粒子が水素やヘリウム原子となり、重い星の中でさらに様々な元素が生まれ・・・と説明します。この科学的な、創造物語はとてもエキサイティングなのですが、もう一つ、同じ出来事を別の視点からの説明した、素晴らしい創造物語があります。(ガリレオ・ガリレイは「神は2つの書物を記された。聖書と自然である。」と言ました。) 

 

 それは、神が「光あれ」(創世記1:3)と言われて始まった創造。その「ことば」こそがキリストであり、私達はキリストによって心をこめて造られ、神は造られた私達を見て「非常に良かった」(創世記1:31)と言ってくださる。神の愛と無関係なものなど一つもない(ヨハネ1:3)というのです。 

 

 アインシュタインは、「信仰なき科学は欠陥であり、科学なき信仰は盲目である。」と言いました。その背景には、科学の研究が、広島・長崎の原爆投下につながったという痛恨の思いがありました。信仰と、理性と、どちらかが正しいのでなく、どちらも神からの賜物なのです。 

 

 私達はそれぞれ、「◯◯あれ」と言われて、神に願われて、この世界に存在しているのです。 

「非常に良かった」と、心から神に喜ばれているのです。 

 その安心と喜びに生きながら、神に与えられた、身体と理性を使って、毎日を歩むのです。  

 

 

<私達に出会いに来てくださった方> 

 聖書はその後、人が神に背を向け、離れ、罪に生きることを記します。私達も歴史を見る時に、自分自身や周囲を省みる時に、それは痛いほどわかります。けれど、ヨハネは、こう続けます。 

4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 

 このキリストこそが、心に暗闇を持ち、悲しみや孤独から希望を失う私達にとって、光であり、いのちであるのです(4〜5節)。 

 

 ですから、人はそのような神を探求したり、善行を積み、生贄を捧げ、自分を磨くことで、神の恩寵を受けようとするのです。流れから言えば、聖書もこの神を求めよと、続くはずです。けれど、ヨハネはそれに反して、不思議な言葉を続けます。 

 

9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 

11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 

14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。 

 

私達が行くのでなく、神が、キリストが、来るのです。 

神が人を受け入れないのでなく、人が来てくださった神を受け入れないのです。 

それでも、神は人を見捨てるのでなく、人となってまで、私達の間にすみ、共にいてくださるのです。 

はじめに聖なる神と共におられた方が、汚れた人と共にいてくださるのです。 

 

これが聖書の良い知らせであり、私達に出会いに来てくださった方です。 

私達が出会うのは、私達を心をこめて創造し喜び、私達を求め人となってくださり、私達のために死んでいのちを与えてくださる、そのような恵みの神、イエス・キリストです。 

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