3月5日のメッセージ(マタイの福音書22章)

IMG_20230305_085537

2023年3月5日「神さまの良い知らせ22」

 

<聖書 マタイの福音書22章>

8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った14 待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです

 

<誰が招かれるか?>

 宗教の特色として、この地上の歩み方をどう生きるかを教えるとともに、地上での歩みの先、一般に天国とも呼ばれますが、それがいかに素晴らしい希望であるか、その素晴らしさにどのように入るか、を伝えるのが大切な役割として期待されています。

 最近ニュースでは、旧統一教会問題に加え、エホバの証人に関することも語られ、輸血拒否、勧誘活動の強制、などが挙げられていました。そういった、宗教団体の決まりを守ることで(禁止事項を侵さないことで)、宗教団体に貢献することで(お金・労力・時間などを差し出すことで)、天国に入れるのだ、という教えは、イエス様の時代にもありました。

 その場合は、力や富や貢献のある者がもてはやされ、問題を抱えた人は虐げられる階層構造が生まれたり、人の生活や時間や財産、そして家族が宗教組織に利用され犠牲になる、といった問題も起こります。今日の箇所では、それに対し、神は悲しみ怒るのです。

 21章で、エルサレムに入ってから、今までのイエス様の言葉とは違い、強い言葉、厳しい言葉が多くなりますが、それには理由があるのです。誰に、どんな状況で話しているかが大切です。

 イエス様は、この話を21章から続いて、祭司長、長老、パリサイ人たち(21章、23,43節)、つまり私達こそ正しい、神の国に一番に入るのだとふんぞり返り、他の人々を見下し、利用し、虐げていた人たちに語りました。(逆に、イエス様は、貧しい人、悲しむ人、正しく歩めない人には、徹底的に憐れみ深く、高慢な人には、徹底的に厳しかったのです。)

 この例え話は、史実に基づいています。イスラエルは5〜6節のように神が送った預言者を無視し、気に食わないと殺していました。(預言者イザヤは逆さに吊るされて、ノコギリで切られたと伝承で伝わっています。)そして人々は、イエスがこの話をした週の週末には、救い主・神の子キリストを十字架で殺すのです。そして、ついには、7節のように、この数十年後、紀元70年にローマ帝国により滅ぼされ廃墟となる。だから、イエス様は天国について教え直したのです。

<1.喜びの祝宴>

 イエス様は天国を王子の結婚式の祝宴に例えました。花婿はイエス・キリスト、花嫁は教会、つまり私達です。神と人に、永遠の誓いがなされる、何よりの喜びの場所です。そして、祝宴の準備は整っている、人間が用意するのでなく、神が用意し、ただただ招いてくださるのです。

<2.みんなが招かれる>

 では、天国には誰が招かれているのか?宗教規則を正しく守った人?宗教知識・理解に富んだ人や悟った人?お金や労力や時間を宗教団体に差し出し多大な貢献をした人?違うのです

9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。

 祝宴には、みな招かれたのです。良い人でも、悪人でも、見境なくです。通りにいた人とは、当時の文化では招かれないと考えられていた人です。立派でない人、宗教的でない人、正しくない人、貧しく問題を抱えた人です。けれど、王は『出会った者をみな』招きなさいと言う。私達の神は、一人ひとりの能力や貢献を調べ、気に入ったものを招くのではないのです。すべての人を、愚かでも、正しくなくても、失敗や醜さがあっても、どんどん招いてしまう方なのです。

<3.祝宴の衣装は貸し出される>

 招いてくださる方がるのですから、問われているのは、招きに応じたかどうかです。そして、招きに応える時に、1点だけ大切なことがあります。

11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。

 当時の祝宴は礼服で参加しますが、婚礼の礼服を用意できない人には、開催する側が用意しました。私達は、自分には問題が、失敗が、醜さが、過去の失敗や傷が、罪があり、けっして神の前に出られない、愛され受け入れられる資格がない、天国に入れない、そう感じるかもしれません。たしかにそうかも知れません・・・けれど、神の前に出るための礼服は神ご自身が用意してくださるのです。

 この礼服についてはずっと前から告げられていました。「たしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ61:10)

 愚かさを恥じる必要はないのです。醜さや汚らわしさで自分や人を責める必要もないのです。神が用意してくださったものを、救いの衣を、義の外套を、まとわせてもらえばよいのです。

 どうかこの恵みだけは、拒まないでください。この救いの衣は、イエス様が十字架にかかってまで、用意してくださった、救いの衣です。すべての罪と汚れを覆い、神の前に立たせてくださる恵みの衣です。

 キリスト抜きで、十字架無しで、自分の正しさや貢献で、自分自身の衣で、祝宴に入ろうとはしないでください。原語のギリシャ語では12節では、「友よ、あなたは」となっている。そして、イエス様はこの呼びかけを、自分を裏切り、兵隊とともにやって来た、ユダにも語りました。神は捨てたい神でない。招きたい神。通りにいる悪人を招き、婚礼の服を拒んでも、友よ、と言ってくださる方です。どうかこの恵みを無駄にしないでください。

 

 そして、救われたものとして、安心と喜びを持って、日々歩んでください。 「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているのです。」(ガラテヤ3:27) 

Top