2月12日のメッセージ

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2023年2月12日「神さまの良い知らせ19〜恐れではなく、喜びで生きる〜」

 

<聖書 マタイの福音書19章>

20 この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」 21 イエスは彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」 22 ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。 23 それから、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのはむずかしいことです。 24 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」 25 弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言った。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」 26 イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」

 

<不安ではなく安心を、心配ではなく確信をもって>

 受験の季節ですね。自分は選ばれるか?という不安な気持ちは、受験だけでなく、就職、昇進、役割や立場の獲得、友達関係や恋愛、など様々に経験してきたことと思います。

 

 もちろん心配があるから努力するのであり、結果として実力向上にも繋がりますし、決して悪いことではありません。けれど、政治やビジネスの世界では、心配や恐れを刺激することで、ある政治思想へと人々を扇動したり、商品を購入させたりと、私達の心配や恐れを上手に利用するのです。(マイケル・ムーア監督のアカデミー賞受賞のドキュメンタリー映画、「ボーリング・フォー・コロンバインはおすすめです。)

 

 それは、信仰も同じです。NHKの『心の時間』では、カルト宗教の特徴として、『恐怖』により、人を縛り操ると語られていました。「正しくなければ救われない。」「もっと活動や献金をしなければ愛されない。」「違反や失敗があれば見捨てられる。」そのような心理に人を追いやり、恐れと不安で人をコントロールするのです。自分は選ばれるのか?捨てられるのではないか?そのような恐れによって生きてはいないでしょうか?

 

<確信のなかった金持ち青年>

  今日の登場人物の金持ち青年は、心配や恐れによって生きていました。マタイ19章には、永遠のいのち(16節)、天の御国(23節)、神の国(24節)など大切な言葉が出てきますが、彼は当時もっとも天国にふさわしいと思われていた人でした。ユダヤ人の血筋に生まれ、多くの財産を持ち、宗教戒律を固く守り、社会的立場もある。それらは神の祝福と考えられ、このような人こそが神に愛され、天の御国に入る・永遠のいのちをつ・・・・そう理解されていました。

 

 けれど、彼には神に愛される確信がなかったのです。救われるのか不安でした。他にも立派な人はいる。自分よりもっと豊かな人はいる。立場のある人も、知識の多い人もいる。どこまでを神が愛し、受け入れてくださるのか、合格ラインが分からなかったのです。だから、イエスに尋ねに来た。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」(マタイ19章16節)さらにイエスが答えると、「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」(20節)何が足りませんか?もっと何をすれば良いでしょうか?

 彼は、自分が差し出す何かで、神の恩寵が得られると思っていた、神と交換条件で取引をしようと必死だったのです。(今日なら??)

 

 だからイエス様はこの金持ち青年に気づいてほしくて、 「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」21節

 すると青年は、悲しみながら去っていき、イエスは「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と言いました。

 お金の所有が悪なのではありません。お金を手放すことで、救われるのでもありません。お金が、知識が、功績が、地位が、神の恵みから目を背けさせていたのです。彼はそれらを誇り、それらに頼り、神の恵みに頼るのを妨げていたのです。

 だからあえてイエス様は、大切なものから目を背けさせている富なら、分け与えてしまいなさいと青年に言ったのです。並行箇所のマルコでは10:21では「イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで」言ったとあります。(このいつくしんでは「アガペー」です。愛をもって言うのです。神と人との関わりは、紋切り型ではなくいつも個別対応であり、神との出会いは十人十色です。この青年は悲しみますが、その葛藤や悲しみから、大切な変化が始まるのです。

 

<それでは誰が救われるのか?>

弟子たちは驚き、尋ねます「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」(25節」(豊かさが、幸せが、立派さが、神の救いの証拠ではないのですか?)

 イエスは彼らをじっと見て言われます。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(26節)

 

 それは18章でも19章でもくり返されたことでした。「13 そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。14 しかし、イエスは言われた。『子どもたちを許してやりなさい。邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。天の御国はこのような者たちの国なのです。』」マタイ19章13節〜

 功績もない、知識もない、献金もない、何も差し出すことの出来ない、子どもたちに対して、イエスは天の御国はこのような者たちの国だと言ったのです。(そして、この直後に、金持ちの立派な青年がやってきたのです。)

 

 天国とは私達が恐れや不安から神に何かを差し出して、怯えつつ入るものではないのです。神が恵みによって、何も差し出せない私たちを招いてくださるものなのです。お金も、知識も、祈りも、奉仕も、立場も、功績も、労苦も、天国の鍵とは交換できないのです。

 

 先日ミッションスクールの礼拝で、『聖書には、神が人を愛する理由なんて書いていない。』というお話を聞きました。

神は私達のDoing(出来ること、成し遂げたこと)や私達のHaving(持っている能力、容姿、才能、功績、理解、知識)のゆえに、合理的な理由があって愛するのではない。神は私達のBeing(存在していること)を喜び、理由なく愛するのだ、というのです。

(あえて言うなら、私達は神に心を込めて造られた存在、神の子だからでしょうか。)

 

 ですから私達は、神に選ばれるかどうかと、恐れる必要はないのです。神が自分の過ちを見つけて、罰するのでは?と怯える必要もないのです。他の人はどうかと、比べたり、裁いたりする必要もないのです。

 

「18 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。19 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。」ヨハネの手紙第一4章18〜19節

 

 私達の神は、試験官や裁判官ではなく、恵み深い父なのです。私達を理由なく愛してくださる神、私達の罪や悪を裁かずに、身代わりに十字架で死んでくださる方なのです。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」ヨハネの手紙第一4章10節

 ですから安心して毎日を歩んでください。あなたは天の御国を、永遠のいのちをすでに得ていて、神は決してあなたを見捨てず、見放さないのです。 その安心があるからこそ、神と人を愛し、キリストのように生きる道を選び取ることがきるのですから。

 

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