1月22日のメッセージ

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2023年1月22日「神さまの良い知らせ16〜不確かな私達を受け止める神〜」 

 

<聖書 ピリピ人への手紙> 

13 さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。・・・15 「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」 16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
17 するとイエスは、彼に答えて言われた、「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天でも解かれています。」
 

<すべての人への問い> 

 聖書は、神から人への、問いかけで満ちています。「あなたはどこにいるのか?」「あなたの弟(隣人)はどこにいるのか?」、「あなたは私を愛しますか?」 

 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10) という言葉がありますが、神さまは私達の答えをすごく大切にしてくださる。 

 そんな問いかけの中でも大切なのが、今日のキリストからペテロへの問いです。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか?」これはペテロだけでも、弟子たちだけでもない、すべての人に問われています。 

 

 イエスとはだれなのか?当時の人々も、イエスに対していろいろな意見をもっていました(13〜14節)。みなさんの周りの人はイエスを誰だと言いますか?キリスト教の創始者?昔の偉人?道徳や倫理の教師?良い行いの見本?けれどイエスは聞くのです。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」、他の誰でもなく、あなたは、どう答えるのですか?と尋ねるのです。 

 (この問は特別な場所、ガリラヤ地方を離れ、首都があったカイザリア地方(皇帝カエサルの名を冠した地方)。ローマ皇帝を崇め、神のように崇める地域で尋ねられました。今日なら経済の中心であるオフィス街か、人気のレジャー施設か、魅力的で、刺激的で、圧倒的で、崇拝し、心奪われる、対象がある場所。自分を神とする存在がいて、人々が崇め、夢中になる人や物があり、様々な価値観が溢れる中で・・・「あなたはわたしを、だれだと言いますか?」と問われたのです。) 

 

<大切な答え> 

 ペテロは答えます。「あなたは生ける神の御子キリストです。」(マルコ8:29では「あなたは、キリストです。」)福音書ごとに答えは違いますが、大切なのは、ペテロがあなたはキリストです、と言えたことです。 

 「キリスト」とは、神さまが遣わした救い主という意味です。ただの賢い人や、尊敬できる人ではない。良いことを教えてくれる人や、ちょっとした助けをくれる人でもない。イエスこそが、私達の嘆きや願いへの答え、神から差し伸べられた救いの手だと言うのです。ペテロはそのポイントだけはしっかり捉えていた。  

  

 イエス様は「あなたは幸いです。」とペテロの告白を喜んで受け止めた。さらにはこのペテロの告白の上に教会を建てあげ、そこから救いが広がると宣言したのです。私達に天国の鍵を預けると、大きな役割を任せてくれた。(マタイ16、18章は、イエス様が「教会」という言葉を使う唯一の箇所です。)福音書は、この場面を境に前半と後半の2つに分けられます。イエスは、ガリラヤ地方で3年間弟子たちと歩み、自分自身を示しました。そして、このペテロの答えを聞いて以降は「よくわかってくれた」と、自分自身の受難をはっきりと告げ、エルサレムへと、十字架へと向かっていくのです。 

 

<不完全な告白>  

でも、ちょっとまってください。ペテロはこの後も大きな失敗をします。 

 直後、21節でイエス様がご自分の受難を予告した途端、22節でイエス様を叱りつけるのです。(いさめるは、叱るとか、軌道修正する、といった意味の言葉です。) 

 ペテロはイエス様をキリスト(神からの救い主)だと言いました。けれど、ペテロにとっての救いとは、国を強くし、ローマを倒してくれる、民族の解放者、ジャンヌ・ダルク的な存在。(復活の後にも、さあ、国を再興してくれるのですか?と弟子たちは訪ねている。)だから、十字架で死ぬなんて、そんな救い主じゃ困ると、イエスを軌道修正しようとしたのです。まさに、神のことでなく、人のことを(23節)、自分の都合や欲望のことばかり、思っていたのです。 

 

 また、イエス様は24節で、自分の苦難の道を思いながら、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言う。 

 この捨てるとは、自己否定するとか、思考停止して盲信する、という意味ではなく、拒むとか、知らないと言う、などの意味で、自分の欲望に導かれない、というニュアンスです。 

  そして、この言葉は、十字架の直前に出てきます。ペテロは、イエスが宗教家に捉えられた時、イエスを裏切って、イエスなんて知らないと、3度も宣言する。「この知らない」、が、「捨てる」、と同じ言葉です。ペテロは、自分の欲望やこだわりをすてられず、逆に、キリストを拒み、知らないと言い、イエスを捨てたのです。 

 

 このような失敗を繰り返すペテロの告白は何だったのだ、と思います。そして、自分自身の歩みを振り返る時、私達も思うでしょう。このペテロの姿は、自分の姿ではないか・・・ 

 

<それでも告白する> 

 イエス様は弟子たちを、私達を、見抜けなかったのでしょうか?いえ、ペテロにはちゃんと告げています。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)イエスは私達の愚かさや過ちや失敗に注目する方ではない。小さな信仰の光を見てくださる。 

 その上で、不完全で、理解に乏しい、打算的で、勝手な願望に満ちた、勇み足の、やがては裏切る者の、一言の告白を喜び、尊んだ。  

 「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ10:10)という約束。救いに功績や、捧げ物など、物や、お金や、努力や犠牲などの交換条件が必要とは書いていない。それどころか、完璧な信仰とか、豊富な知識とも、深い理解とも、善良な心おも、雄弁な確信に満ちた告白とも、言われていないのです。 

 

 ただ、信じること、ただ告白すること。不確かで、身勝手な信仰でも、変わりやすく、吹けば飛ぶような、告白であったとしても、喜んでしっかりと受け止めてくださるのです。その小さな告白を、宝として捉えてくださる方が私達の神さまです。 

 そして、「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えに」(ヨハネ1:12)なるのです。そして、「わたしはけっしてあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル13:5)と誓ってくださる。 

 

 たとえ、不確かでも、どれだけ小さな声でも、この問に答え続ける一週間としてくださる。そして、自分の告白の確かさでなく、その不確かな告白を受け止め、喜び、共にいて導いてくださる神に支えられる歩みとなりますように。 

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