1月15日のメッセージ

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2023年1月15日「上を向いて歩こう」

<聖書 ピリピ人への手紙

4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

<ファミリータイム 創世記4章「カインとアベル」>

4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。 4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」 4:8 しかし、カインは弟アベルに話しかけた。「野に行こうではないか。」そして、ふたりが野にいたとき、カインは弟アベルに襲いかかり、彼を殺した。

困難は私たちへのリトマス試験紙

 以前『コロナ問われる人間性』という話を聞きました。コロナをはじめ、危機や困難は「人間性を判定するリトマス試験紙」のようで、普段は隠せている本当の姿や抱えていた問題が露呈されてしまう、というのです。周囲の人を、そして自分自身を省みる時に、その通りだと思いました。

 

 危機や困難の中で、私達は心は疲れ、不満、不安、恐れ、妬み、怒り、などがたまります。そして、私達の内側にある罪の性質は、それらを餌に大きく成長します。まるで、神さまがカインに言った、「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている」(創世記4:7)状態です。そして、やがて外へと爆発し、周囲を傷つけ、関係を損ないます兄弟アベルを殺したカインの姿は、私達の姿そのものだと思うのです。(有島武郎による「カインの末裔」という小説もありますね。)

 

『カインとアベル』印象的な言葉が繰り返されます。「カインはひどく怒り、顔を伏せた。 そこで、主は、カインに仰せられた。『なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」(創世記4:5~6)カインは『顔を伏せ』ていたのです。顔が、伏せられ、一人自分の中で思い煩っていた。そして、次第に人間らしさを失い、まるで獣のように、自分の弟を手にかけるのです。

自分の心に一人静かに向き合うことも大切です。人に顔を向け、人とのかかわりに生かされもします。しかし神様との(縦の)関係がないと、顔を伏せたままだと、時に自分を見失ってしまうのです。

 

あなたの

面白いことに人間という言葉は、ギリシャ語でアンスローポス。『顔を上に向ける者』という言葉です。(旧約聖書はヘブライ語ですし、新約聖書が記される前からギリシャ語はありましたがパウロは、いえ神様は、人間とは、顔を上に、天に、神に向けるものだ、それでこそ人間らしくいられるのだ、きっとそんな思いをもってこの言葉を用いたのかもしれません。

 

 神様が求めているのは、捧げ物ではありません。私たちの顔です。神様が言った、「正しく行ったなら受け入れられる」(新改訳2017の欄外別訳:「顔を上げられる」)、という不思議な言葉。もしこれ私達の正しさや立派さを求めた条件なら、誰一人神様に顔向けできる人はいないでしょう。しかし、この「正しく」という言葉は、「喜んで、嬉しくて」、という意味を持つ言葉です。さらに原語では反語表現が使われていて、「喜んで行っているなら、顔を上げられないはずがないだろう?」とも訳せます。

 

神様に食物を与えられている、日々生かされている、その感謝と喜びをもって、アベルは上を見上げて歩んだのでしょう。そして、神様は、アベルのささげ物でなく、アベルの心そのものを喜んだ。逆

に、カインは顔が、心が、魂が、神に向いていなかった。神様はカインのささげ物を拒んだのではなく、カイン自身の心を、カインの顔そのものを求めたのです。

 

 今日のピリピ4:6~7には、立派な心で神に向かえとは一言も記されていません。思い煩ったままでいいから、どんな身勝手な願い事でもいいから、神に知ってもらいなさい、と励まします。神は全てのことをごご存知なのになぜ?それはあなたの顔が、心が、上に向くことが大切だからです。

 

私たちが見上げると、神様と目が合います。親が子を見るようにずっと私たちを優しく時に心配して見守っている天の父の視線に気付くわけです。そして、神様と一緒に、私達の内側の問題も、外側の問題も取り扱ってくださり、「人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ4:7)

<それがどんな心でも>

聖書の詩篇の中には、自分の恨みや怒りや悲しみを、好き放題神にぶつけるような詩篇がたくさんあります。(呪いの詩篇と言われます。)時には神を非難する言葉まであります。なんで聖書にこんな内容が・・・と思わず読み飛ばしたくなります。でも正直でいいのです。自分の中で思い煩い、罪の心に餌をやるよりは、その罪に満たされ、誰かを傷つけるよりは、顔を上に向け、正直に神にすべて持って行けばいのです。呪いの詩篇は、最初は不満や怒りを述べていますが次第にその罪の心が溶けて消え去るかのように、感謝や賛美の歌に変えられていきます。母親の膝で怒りや文句を言っていた小さなこどもが、次第に言葉や表情が柔らかくなり、いつのまにかすやすや眠ってしまう、そんな場面を思い浮かべます。

カインも、顔を伏せていないで、顔を上げて、不満や怒りを神に正直に向けていたら・・・結果は違ったのかもしれません。神さまがカインに、「罪は戸口で待ち伏せして・・・いる。だが、あなたはそれを治めるべきである。」と語りますが、自分で罪を抑えきれない私達の、唯一の方法が、愚かで罪深いままでも、乱れた未解決の心でも、神の前に出ることではないでしょうか?

<あなたの悩み苦しみを、いつくしみ深い方に>

 今日礼拝で歌った『いつくしみ深き』という讃美歌は、ジョセフ・スクライベンという人の経験した悲しみから生まれました。彼は、結婚式の前日、婚約者と馬にのっていました。川の上にかけられた橋を渡るところで、突然馬が暴れ出し、愛する婚約者は川に落ち、命を落とします。

 失意の中でもスクライベンは、先生としてこども達を熱心に教えます。再び婚約をしますが、その相手も病で天に召されます。周囲の人は、彼はもうダメだと思った。しかし、彼を心配する人に、スクライベンは私は神に心を打ち明けつつ歩んでいます、と手紙を記します。それがこの讃美歌の歌詞となりました。原文の英語では『Take it to the Lord in prayer』(罪を、弱さを、痛みを、全てを、祈りを通して神へ持っていきなさい)と繰り返されます。その方は慈しみ深い方だ、そう繰り返されます。

 恨みや怒りがあれば、どうかあなたの顔を上げ、十字架のキリストを見上げてください。私達のためにも、私達が恨み怒っている人のためにも、十字架にかかられた方の顔を見て、をそのままを打ち明けてください。神への不満や文句があったとしても、そのままぶつけていいのです。実は、この後、カインがアベルを殺した後、やっと顔を上に向けて、神と話します。そして、神はカインを見捨てなかったのです(創世記4:15)。私達が、たとえどれだけ失敗しても、顔を上げた先の十字架にこそ、救いがあるのです。

<今週の黙想> 今週を祈りの週としてみてください。何かあるごとに心を上に向け、あなたの喜びも、悲しみも、失敗も・・・祈りを通して、神様に持って行ってください。

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