10月23日のメッセージ

202210月23日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ⑩

<聖書:マタイの福音書10章>

34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。36 さらに、家族の者がその人の敵となります。37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします

 

 

<罪とは魂の病>

 NHKこころの時代「宗教とカルト」全2回120分を見ました。(ハイライトですが、10数分ずつ4つにまとめられ、NHKのYoutubeで見ることができます。)カルト宗教の、そしてカルト化した宗教の特徴として、恐怖、搾取、束縛の3つが挙げられ、自分自身を省みる意味でも、大変有意義でした。

 

 今日の箇所は、キリスト教系のカルト宗教において、(それらは、聖書をモデルにした2次創作を教義・経典としているため、多くの方にとっては見分けがつきにくいのです)、社会や仕事、家族との繋がりや義務を放棄させ、宗教団体に都合よく操るという動機で、誤って引用されてきた聖書箇所。文字通り家族を敵とし分断させ、信仰者を生活や社会常識から、剣のように断ち切ってきた箇所です。同時に、聖書の中でとても大切な箇所であり、私たちはイエス様が本当に伝えたかったことを受け止めたいのです。

<聖書全体から理解する〜キリストは平和をもたらす方・私たちは神に反抗する存在〜>

 この箇所を理解するには、聖書は全体からとらえる必要があります。イエス様は、平和の君」(Prince of Pieceイザヤ9:6)とその誕生を預言され、クリスマスには天使たちがその誕生を祝い「天に栄光、地に平和」(ルカ2:14)歌った方です。ガリラヤの山の上で、平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5:9)と教えられた方です。

 神は十戒にはおいて父と母を敬え」(出エジプト記20:12)と語り、イエス様は宗教を理由に自分の両親を養う義務を誤魔化していた宗教家達を厳しく批判しました。(マタイ15:3〜6)

 「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(エペソ2:14~15)とある通り、イエス様の道は、私たちに、周囲に平和をもたらす道です。イエスは、敵意や分断を引き起こす方ではありません。むしろ、迫害するもののために祈れと、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ、と教えられ、自ら十字架にかかられた方です。

 一方、私たちにはその罪故に、神に、神の言葉に反抗する傾向があるのです。 34節の剣とは、「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。」(ヘブル4:12)の箇所から、神の言葉と理解されます。人は神の言葉を通し、自分の醜さや愚かさ、罪深さが明らかにされます。(ルカ2:34〜35)神の言葉は、キリストは、私たちには都合が悪く、邪魔な存在です。ですから結果的に、キリストに、神の言葉に従う時に、国や、地域や、時には家族からも理解されず、攻撃や迫害を受けることがある。そのことに恐れ驚いてはならないとイエスは教えるのです。(宗教活動のために家族を犠牲にし、宗教団体に身も心も捧げよ、という意味ではないのです。)

<文脈・時代背景から理解する〜地の塩、世の光として〜>

 今日の箇所は、直接的には今から2000年前の12弟子達への教えです。12弟子の一人でもあったマタイはそれを、ローマ帝国の迫害の迫る初代教会に向けて記しました。当時は「平和」と呼ばれた時代でした。ローマの平和(パックス・ロマーナ)の時代、それは帝国に服従し、皇帝を礼拝する限りは「平和」が保

証される、剣による平和の時代です。ユダヤ社会も、ローマ支配下で宗教と政治のバランスを取っていました。そんな時代、キリストは、教会は、波風を立てる邪魔な存在、迫害の対象でした。

 先日の「NHKこころの時代」の「宗教とカルト」では反社会と反体制について、語られていました。キリストは、教会は反社会的ではありませんでしたが(むしろ社会が虐げる人たちの拠り所となりました)、本当の神がおられるとローマに皇帝を拝まず、貧しい人や罪人を蔑ろにするユダヤ宗教社会に批判的であり、体制からは、目障りで、耳障りな反体制的な存在でした。(体制が、大多数の意見が常に正しいとは限らず、反体制的であることが、非人間的、非社会的であることとは限らないのです。実際、ナチスドイツによる、ユダヤ人迫害。イギリスによる、インドの植民地支配、などでは、宗教が反体制として大切な役割を担ったのです。)

 番組でカトリックの若松英輔さんは、反体制的である時、多数の意見に反する時、教会は、信仰者は何を守っているかが問われている、と語りました。宗教は、信仰者は、自分や団体の利益や都合、勢力拡大のために動くと大切なものを見失う(カルトは純真な人を言葉巧みに、自らの利益のために用いるのです)。そうでなく、人間の尊さ、人間の繋がり、人間の存在する意味、それらを守るのだと、語りました。

 日本にも第2次世界対戦下のように、国家崇拝が強要され、教会が閉鎖されたり、牧師が投獄されたりした時代もありました。あの時代、人間の自由と平和のために戦った教会は、今日の箇所にどれほど勇気づけられたでしょう。今日は状況が異なりますが、私たちはキリストに従う時、国でも、会社でも、地域でも、家族でも、大小様々な摩擦を体験します。

 そんな時、大切なのは良い意味で自分を疑うこと、動機を探ることです。私たちのしようとしていることが、自分の都合や願望や逃避、宗教団体の都合や利益のためではないか?私たちが抱える、周囲との問題は、本当にキリストの歩みをたどるゆえか、それとも信仰集団や指導者や自分自身の誤りや偏りのゆえか?イエス様ならどうなさるか?私の心は、神と隣人とを愛する動機で行っているのか?盲信や狂信、思考停止と、深い信仰とは違ます。問いは、疑いは、信仰に深みと厚みを与えてくれるものなのです。

<神を愛し人を愛する>

 イエス様は『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。」(マタイ22:37〜39)と教えられました。神を愛することと、隣人、家族を愛することは、深く結びつき、切り離すことはできません。(棒と重心の例え)

 神は、家族を愛さない理由にはなりえませんし、逆に、家族は神を愛さない理由にはなりえません。

37節は、家族を捨てよという命令ではない。自分や周囲の、願望や都合よりも、全てをご存知で最善へと導く、神様の声を第一に聞き、選びなさい、というのです。その結果は様々です

 ペテロは仕事や家族を離れ(妻は同行)るように導かれ、ある人は奇跡を体験しつつも家に帰ってそこの場で神を知るものとして生きるように導かれました。(マザーテレサは、修道院で貧しい人のために働きたいという人に、「まず行ってあなたの家族を愛しなさい」と伝えたそうです。)神様は個別対応をする神様です。ある人には非常に優しくそのまま受け止め、ある人には大変厳しいチャレンジをした。神様はその人にとっての必要を、最善をご存じの方であり、私たちは聞き続けるのです。

 イエス様は、父ヨセフが早くに亡くなったとされ、30歳まで、家族を養い続けました。家を離れ、貧しい人や苦しむ人に寄り添い、彼らを家族と呼びました。家族ですら理解できず、母マリアから誤解されたこともあります。十字架の苦しみの中でさえ、母の身を案じ、弟子のヨハネに委ねました。(ヨハネ19:26〜27)イエス様は神に聞き続け、神と人とを愛し続けたのです。

 私たちそれぞれのチャレンジは違います。私たちは12弟子ではなく、殉教の死も求められてはいないかも

しれませんが、彼らと同じキリストに従う者であり、神の子、キリストの弟子です。自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。」(39節)とあるように、日々小さくでも自分に死ぬことを求められているのです。

 神を愛するとは、誰かの言いなりになることでないのです。私たちの心が伴っていなくてはいけない。疑問だって一緒にあっていい。迷いつつ、悩みつつ、神に聞きつつ、心を、思いを、知力を尽くして、イエス様ならどうなさるかを問い、神の恵みに応答するのです。

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