9月11日のメッセージ

2022年9月11日  マタイの福音書〜神様の良い知らせ④

<聖書:マタイの福音書4章>

4:3 すると、試みる者が近づいて来て言った。「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」

<福音〜試練・誘惑を受けたイエス様〜>

 マタイの福音書から、良い知らせという意味を持つ、「福音」(ギリシャ語で、ユーアンゲリオン・エヴァンゲリオン、英語でGospel・ゴスペル)について教えられ、一般社会の理論とも、典型的な宗教とも違う、福音の素晴らしさを味わっていきたいと思います。

 イエス様が、洗礼を受け、次に体験したことは、荒野で誘惑・試練を受けたことです。(試練と誘惑は別のものに思えますが、どちらもギリシャ語ペイラスモス。聖書では同じ言葉です。よく、試練は神から、誘惑は悪魔からと、言いますが原語的には根拠はありません。)

 

 ある宗教では、苦難があると、難しい状況が起こると、隠れた罪が原因などで償いが必要とか、前世で悪いことをした、ご先祖様への供養が足りない、など様々な理由をつけ、お金や束縛を要求されます。
 そこまででなくても、なにか苦境に陥ると、なにか私が悪いのかな?罪が原因かな?神様に責められているのかな?と、自分の側に理由を探す人もいるのかもしれません。(毎日の聖書でヨブ記を読んでいますが、これはヨブの友人達の論理であり、それはヨブをさらに苦しめました。)

 

 今日の箇所で、神様に「導かれて」(1節)イエス様が試練に、誘惑にあっているのです。そして、イエス様の生涯を見れば、誕生から、最後の十字架まで、試練と誘惑の連続でした。

 ですから、もし難しい状況に会っても、どうか自分を責めたり、疑ったりしないでください。また、神の愛を疑ったり、恐れすぎたりしなくても良いのです。試練や誘惑は必ず直面します。けれど、イエス様が、試練・誘惑にあわれたこと、そしてそれに勝たれたこと、これは私たちにとっての福音なのです。

試練・誘惑に勝たれたイエス様>

 4章には、荒野、40日40夜、パン(食物)、イエスの引用した申命記の言葉、これらはみな、エジプトを出た神の民たちが、荒野での様々な試み・誘惑に直面したことを背景としています(出エジプト記〜申命記)。そして、彼らは、不安から我を失い神を拒んだり、欲望にまみれ堕落したり、悪に走ったり、神との歩みを妥協したりと、誘惑、試練に負けたのです。

 そして、今日の箇所でイエス様は、荒野の民を堕落させた誘惑と向き合いました。1つ目は、パンに代表される生活の必要(3〜4節)、2つ目は神の保護への疑い(5〜7節)、3つ目は繁栄や富、地位などの楽しみ(8〜10節)

 これら悪魔の提案はとても合理的で現実的です。時には6節のように聖書すら引用して「信仰的・聖書的」な形さえもとります。(人を動かそうとして、自分の意見や希望を通そうとして、聖書の言葉を使わないように、自分や相手や(牧師の!)心をチェックしてみてください。)

 悪魔とは、恐怖映画のように恐ろしい姿で、人を襲う存在ではありません。悪魔は人の心を、魂を巧みに襲うのです。

 私たちも、目の前の困難な状況、病、欠乏、悩ませる相手、惹きつける誘惑など、日々様々な試練があ

るかと思います。悪魔は、それらをきっかけに、欲望を大きくし我を失わせ、恐れを大きくし神を疑わせ、高慢さを大きくし自分の考えを神の御心と混同させます。私たちの内側を、欲望や高慢、恐れや不安や諦めで満たし、神との関係を損なわせるのです。

 誤解しないでいただきたいのですが、食物や健康など生活の保証も、神の保護も、この世界の喜びも、決して悪いものではありません。むしろ、神が喜んで与えてくださる恵みであり良いものです。

 けれどイエス様は、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33) と、本当のいのちを、いのちの源である神との関係を大切にするように教えられた。

 一方、私たちは難しい状況に直面すると、欲望が刺激されると、恵みをくださる神様以上にそれらの恵みを求めたり、誤った方法で求めたり、その恵みの分量や方法を自分が神のように判断させたり、自分でこの程度でいいと妥協したりします。試練とは、神様との関係を歪ませ、損なわせる恐れがあり、悪魔が狙うのは、私たちの神への心です。

イエス様はそれに対して、聖書の申命記の言葉で応えました。

1.申命記8章3節   荒野での空腹を天からのマナで養われた体験

2.申命記6章16節  乾きから神の保護を試したマサでの体験(出エジプト記19章1〜7節)

3.申命記6章13節  バアルを始めとして、反映や安定を約束してくれる神々

 難しい状況に対して、もっともらしい(しかも聖書の!)言葉に対して、魅力的な誘いに対して、今この時、神様はどう見ているかな?と、神様との関係の中で考え、応えたのです。イエス様は、神様との関係を第一にされた。

 「人はパンだけで・・・」も、決して霞を食べて生きよとは言っていない。イエス様は、お腹をすかせた5000人に食事を配り、養う方でした。同時に「わたしがのちのパンです」(ヨハネ6:35)、と言い、身体だけでなく、心を、魂をも満たし、ほんとうの意味で私たちを生かす方なのです。私たちも、どのような試練や誘惑に対しても、自分と神様との関係がどのようなものかを、神様への心を、大切にしたいのです。

<逃れの道であるイエス様>

 試練・誘惑に関して、聖書で最も有名な言葉は以下のものです。

「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」 第一コリント10章13節

 今日の箇所に照らし合わせて読むなら、私たちの出会う試練や誘惑は、イエス様が知っておられる。迫害も、誹謗中傷も、誤解も、孤独も、乏しさも、病も、それらがもたらす、悲しみも、苦しみも、恐れも、怒りも・・・知っているからこそ、イエス様は試練や誘惑にある私たちに寄り添うことができる。

 同時にイエス様はそれらに敗れ去ることはなかった。神との関係を損なうことはなかったのです。今日の箇所は、一つ一つの試みの意味も大切ですが、完全数を表す3つの誘惑・試練に勝たれたことから、イエス様は誘惑に、試練に、完全に打ち勝たれたことを意味します。

 そう考えるなら、「逃れの道」とは、困難がなくなること以上に、このイエス様こそが逃れの道とも言えます。このイエス様に結びつくなら、打ち勝たれたイエス様とともに私たちもくぐり抜けることができるという、知らせなのです。 また、イエス様は、誘惑・試練に対して、聖書の言葉によって、神の言葉によって応えましたが、聖書はイエス様ご自身を指して、神の「ことば」(ヨハネ1章)と呼んでいます。

 

 私たちの痛みも悲しみも恐れも知っている方が共におられ支えてくださるから、私たちの罪も醜さも十字架で背負ってくださった方がそれでも愛をしてくださるから、墓からいのちへ復活された方が諦めるなと手を取ってくださるから、私たちはどのような試練や誘惑にも、勇気を持って立ち向かうことができるのです。何度失敗しても、何度挫けても、キリストと共に歩み続けられますように。

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