1月2日のメッセージ

おざく台教会2022年1月2日「あなたはわたしを愛しますか?」

 

<聖書:ヨハネの福音書>

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」 21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

 

 

<私たちに問いかける神>

昨年はどんな年でしたか?コロナ禍もあり、難しい出来事も多かったでしょう。その中で失敗や後悔もあり、自信や意欲を失いかけているかもしれません。「なんであんなことが?」「誰のせいだろう?」「どうすればよかったのだろう?」そんな問いが頭に浮かぶかもしれません。ぜひそれは祈りの中で聞き続けていただきたい。

同時に今日は神様に問うだけでなく、神様からの問いに耳を傾けたいと思います。(聖書は私達への問いかけで満ちています。「あなたはどこにいるのか?」「あなたは私に何をしてほしいのか?」「あなたは私を誰と言うのか?」神様は人に問いかける方です。)「あなたはわたしを愛しますか?」これは失望し、立ち上がれなくなり、いろいろな疑問が頭をめぐっていたペテロに、イエス様が尋ねた問いです。

 

<人の愛を求める神>

「アナタハ神ヲシンジマスカ?」という古いセリフがありました。多くの人は神を信仰の対象だと考えます。しかし、聖書は神は愛の対象だと教えます。

「あなたは私を愛しますか?」ヨハネの福音書は、いえ聖書はこの問いかけをするために記されたとも言えます。

聖書は、神様がこの世界と私達を造り出した、私達のいのちの源だと。しかしその神から離れ死んだようになってしまったと。そして、私達が再びいのちを得るために、神の子どもとなるために、イエス・キリストが来てくださったと語ります。このイエスこそが神からの救いですよ、あなたのいのちですよ、と読む私たちに訴えかけ続けます。そして、私達に問いかけます。「あなたは私を愛しますか?」

ペテロだけにではない、読者への、全ての人への、神からの問いです。「あなたは私を愛しますか?」

 

<神の無限の愛>

「愛しますか?」と問うということは、逆に言えば、人は神を愛せなかった、神を大切にすることを選べなかった、のです。

自分を造った方に、背を向け、軽んじ、目と耳をふさぎ、唾を吐きかけてきた、それが聖書に記されている人間の姿です。それで幸せならばいいのですが、自分のいのちの源をないがしろにしたため、どんどんと自分自身も、他の人をも苦しめていく・・そんな私達が苦しむ姿に耐えられず、神様は何度でも手を伸ばし問い続けます。「あなたは私を愛しますか?」

 

ペテロは、イエスを知らないと「3度」拒みました。「3」は当時特別な意味で使われた数です。完全数と言われ、完ぺきにとか、全くを意味しました。ペテロはイエスを完全に拒んだのです。全く捨て去ったのです。

それでもイエスは現われ、ペテロに「3度」問うのです。

「あなたは私を愛しますか?」これは言い換えるなら、問いかけでありながら「私はあなたを無限に愛し、あなたとの関係をあきらめない。」という神の語りかけでもあります。

イエスは自分を裏切ったペテロを何度でも何度でも、完全に、無限に愛したのです。

 

<神の一方的な愛>

イエスを裏切ったのはペテロだけではありません。イスカリオテのユダも同じです。しかし、ユダは裏切りと言う自分の失敗を、自分で解決しようと、自死を選びました。一見責任感があるようですが、もっとも神を悲しませる選択です。宗教家がユダに語った「自分で始末することだ。」(マタイ27:49)これは悪魔の言葉です。私達の過ちに、始末をつけられるのは、キリストだけです。

 

イエスは自分を裏切った弟子達のためにも、自分を殺そうとした宗教家のためにも、十字架にかかり、赦しを祈りました。そして復活の後、自分を裏切った弟子達を自ら訪れました。

ヨハネの福音書では今回が「3度目」です。神は完全に自ら歩み寄る方です。彼らのためにイエス様が食事を用意してくれた。食事とは親しさの現れです。それをイエス様がしてくれた。そして「彼らが食事を済ませたとき、」(21:15)つまり、十分にご自分の愛と赦しを表現した後で訊ねたのです。そう考えると、

「あなたはわたしを愛しますか?」この問いかけは別の響きを持って聞こえてきます。

「十字架でわたしはあなたを愛しました。赦しました。わたしはあなたを変わらずに愛しています。あなたは?」

 

私達が何度無視しようが、裏切ろうが、失敗しようが、見捨てず近づいて問います。「あなたはわたしを愛しますか?」と聞いてくださるのが、私達の信じるイエス様です。

ヨハネは晩年、どれだけ罪深くても、このキリストの無限の愛にすがるようにと、教会を励まします。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」第一ヨハネ1章9節

どうか自分で自分を諦めないでください。この無限の愛に信頼してください。

 

<答(こた)えより、応(こた)えを>

わたし達はどう応えましょうか?神様のこの問いに正解は、模範解答はありません。神が人となってくださったことに、十字架にかかってくださったことに、表面的な言葉ではとても足りません。「はい、愛します」、と答えたペテロに、イエスの羊を飼う、つまり、教会を導くことをイエス様は願いました。では、私達には何というでしょう?私達はペテロではありません。私達一人一人は、神様によってユニークに造られ、違う場所に置かれた、別の人間です。それぞれが、神の愛に感動し、神様の語りかけに耳を傾け、自分なりに応答していく、それが神様のあなたへの望みです。

 

何をするかという行為だけに関心を向けないように注意してください。キリスト教最大の神学者アウグスティヌスはこう記しています。「神を愛せよ。その後に汝の欲することをなせ。」私達の応答が、一方的かつ無限に愛してくださった神への感謝に、神への愛に導かれますように。

 

<今週の黙想>「あなたはわたしを愛しますか?」日々、この語りかけに思いを巡らし、自分なりに神の愛に応える応答をしてみてください。

 

<今週の賛美>

讃美歌332番

「主は命を与えませり 主は血潮を流しませり その死によりてぞ我は生きぬ 我何をなして主に報いし」

 

<補足~イエスの目に映るあなた~>

ペテロの本名はシモンです。植物の<葦>を意味します。弱いものの代表です。しかしイエスは、シモンをペテロ<岩>と名付けました。イエスの目にシモンは、強いものと写っていたのです。イエスを裏切ったシモンは、自分の弱さに失望し、自分はもうダメだ、やはり自分は弱い<葦>だ、と思ったでしょう。全てを諦め、漁師に戻ろうとしていました。しかしイエスは、彼を見捨てず、「わたしの羊を飼いなさい」と教会のリーダーと言う大きな役目を任せます。だれが弱い<葦>にそのような役割を任せるでしょう?イエスは、ペテロを信じ、あなたは強い<岩>だと励ましたのです。神の愛を知ったペテロは、イエスの目に映る姿に変えられていきました。

 

あなたは自分をつまらない存在、意味のない存在、価値のない存在、そう思っていませんか?

もしあなたに価値がないなら、どうしてイエスはあなたのために十字架にかかるでしょうか?どうしてイエスはあなたのところに来て「あなたはあなたを愛しますか?」とたずねるのでしょう?

イエスは、あなたを決して見放さず、見捨てず、何度失敗しても、近づき、期待を込めて訊ねてくださいます。

「あなたはわたしを愛しますか?」

 

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