11月21日のメッセージ

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2021年11月21日「困難の時に知っておきたい聖書39~神の真実~」

 

<書 書>

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。  第二テモテ2章13節

 

<ルツ記>

3:10 すると、ボアズは言った。「娘さん。主があなたを祝福されるように。あなたのあとからの真実は、先の真実にまさっています。あなたは貧しい者でも、富む者でも、若い男たちのあとを追わなかったからです。3:11 さあ、娘さん。恐れてはいけません。あなたの望むことはみな、してあげましょう。この町の人々はみな、あなたがしっかりした女であることを知っているからです。

3:12 ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類です。しかし、私よりももっと近い買い戻しの権利のある親類がおります。3:13 今晩はここで過ごしなさい。朝になって、もしその人があなたに親類の役目を果たすなら、けっこうです。その人に親類の役目を果たさせなさい。しかし、もしその人があなたに親類の役目を果たすことを喜ばないなら、私があなたを買い戻します。主は生きておられる。とにかく、朝までおやすみなさい。」

 

<それでも>

生活していると人間関係の中で、誠実でいるのが、相手を思いやるのが、キリストに従おうとするのが、馬鹿らしくなる・・・そんな経験ないでしょうか?

(もちろん私達は決して完璧な人間ではありませんが、私達なりに精一杯の)愛と善意を尽くしても、人間の罪の性質や身勝手さによって、理解されなかったり、願う反応が返ってこなかったり、台無しにされたり、逆に攻撃されたり・・・そんな時、私達は失望し、落ち込み、生き方や態度を変えたくなります。

 

その度に、マザーテレサの孤児院の壁に書いてあった『それでもなお』という詩が頭に浮かびます。(マザー本人の言葉ではなく、ハワイ州の閣僚の言葉に感銘を受け、記したそうです。)

 

1  人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。

2  何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

3  成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功しなさい。

4  今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

5  正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。

6  もっとも大きな考えをもったもっとも大きな男女は、もっとも小さな心をもったもっとも小さな男女によって、撃ち落とされるかもしれない。それでもなお、大きな考えをもちなさい。

7  人は弱者をひいきにはするが、勝者のあとにしかついていかない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。

8  何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築きあげなさい。

9  人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。

10  世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。

 

<神の真実>

こんなことできないよ。そう思います。マザーテレサだってそうでしょう。けれどマザーは、これを私達にしてくださった方を知っていました。身勝手で、自己中心で、反抗的な私たち人間を、『それでもなお』愛しぬいてくださった方と出会っています。自分ではできない、でもその方が共にいるなら・・・

 

旧約聖書における最重要単語の一つと言われるのが、ヘブライ語のへセドということばで、恵み、真実、誠実、と訳されます。ただの愛や善意ではなく、約束や誓いを貫き通す愛、といった意味がこめられます。

<ルツ記 真実の愛の物語>

けれど、それがへセドの愛が、人にも見られる箇所がある。それがルツ記であり、聖書の中で女性の名が、それも外国人の女性の名が付けられた書です。同じ時代(BC1200~1050頃)の士師記は、人の不誠実さと身勝手さの記録にあふれていますが、そのような時代にあって、ルツ記に記されたナオミやルツ、ボアズの誠実な姿がとても印象的です。

<変わらなかったルツ>

ルツは外国の女性、モアブ人ですが、飢饉のため避難してきたイスラエル人と結婚しました。夫が死んだため、好きに生きることができました。自分の土地には、親族もいるし、再婚だって出来た。『それでもなお』姑のナオミを見捨てられず寄り添い続け、イスラエルまで行きます。

また、ナオミの亡き夫の土地が他人に売られていたのですが、自分の生涯を捧げてまで、ナオミのもとにその土地を取り戻そうとします(ルツ記3:9。風習や義務からではなく、姑ナオミへの自由な愛から)ボアズは、自分の都合だけに流されず、ナオミに寄り添い続けたルツの姿を、真実<へセド>(ルツ記3:10)と表現します。

<変わらなかったボアズ>

ボアズも、ルツに対して真実を尽くします。旧約聖書には、みなしごや未亡人、在留外国人などを思いやるように教えていました。かつてイスラエル人がエジプトで貧しく、神に助けられたからです。

『思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。』

申命記24:18~19

 

けれど、当時はそれらが疎かにされていた。それなのに、ボアズは、自分たちが受けた神の愛に応答し、ルツとナオミの生活を守ることで、神と人とに真実を尽くしました。ルツが自分のところへやってきた時も、すぐに自分のものにするのではなく、神様の定めた順番に従い、自分より先に畑とルツを買い戻す権威のある人に確認をします。(自分の欲求や都合だけに流されないのです)

 

当時は、家族や親族やその所有地が(奴隷状態など)、持ち主以外のものとなると、代価・犠牲を払って買い戻す、『贖い』という義務がありました(レビ記25:25)。神が与えた相続地を守り受け継ぐためです。

義務のある親族にとっては、ルツがいなければ自分のものになりますが、ルツがいれば、ルツとの間に子をもうけ、その子に土地を与えなければなりません。自分のものにならない畑も、外国の未亡人も、面倒だったのでしょう、贖いの責任を拒否します。ボアズにとっても自分のものとはなりません、『それでもなお』、畑を買い取り、ルツの身柄も引き受けます。

 

自己中心、自分勝手がまん延していた士師の時代にあって、ルツも、ナオミも、ボアズも、利他的な、人を思いやる心で溢れています。ただ優しいのでない、神の愛を受けた者として、神の真実を体験したものとして、神と人に真実をつくそうとするのです

 

<キリストによる贖い>

ナオミに寄り添い、古代の習慣のために自分の犠牲にしたルツは愚かな女性だったのでしょうか?

他者を気にかけない時代の中で、ボアズは無駄なことをしたお人好しだったのでしょうか?

けれど、彼ら以上に愚かでお人好しなのが、聖書の神様です。人は変わりやすく、約束や誓いを曲げますが、神は約束を貫き通し、たとえ人間がどれだけ背いても決して、見捨てなかった。そして、クリスマスに、キリストをこの世界へと、ルツの住んだベツレヘムの馬小屋へ、そして十字架へと送ってくださった・・・キリストの死と言う贖いの代価で、私達は罪と死の中から贖い出され、神のものとされたのです。

 

神様はちゃんとルツを、ボアズを見てくださっていた。親が自分の子に接したように、自分の子が他の人に優しくするのを心から喜ぶように、その誠実を喜んでくださっていた。そして、ルツを助け、ボアズと出会わせてくださった。神様が見ていてくださる、「主は生きておられる」(3:13)だから恐れずに真実を尽くしてください。

 

ボアズとルツは、やがて生まれるダビデ王の曾祖父・曾祖母となった。ルツの名前は、マタイの福音書1章のメシアの家系図にしっかりと記録されています。ルツの真実が、救いの歴史の一助となったように・・・あなたが神の真実に応えて、人に示す真実は、たとえ人にどう受け止められようと、神に覚えらえれており、誰かの救いへとつながるのです。

 

今日の聖書の箇所「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。」(第二テモテ2章13節)は、パウロ達も歌った古代の讃美歌の歌詞です。私達は、神の真実を覚えるとき、私達の内にも真実が生まれてきます。

ですから、キリストの真実のゆえに、祈りを込めてお伝えします。『それでもなお』真実を尽くしてください。

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