9月27日のメッセージ

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2020年9月27日「困難の時に知っておきたい聖書⑰~いつかわかる時を信じて~」

 

<聖書 ローマ人へ手紙8:28>

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 

<ファミリータイム 創世記>

45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。 45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。 45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。 45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

 

50:18 彼の兄弟たちも来て、彼の前にひれ伏して言った。「私たちはあなたの奴隷です。」 50:19 ヨセフは彼らに言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。 50:20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。 50:21 ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。

 

<目に見える状況、目に見えない神>

先日新国立競技場の前を通りました。予定されていたオリンピックは延期となり、フェンスで囲まれたまま。この先も分からない。多くの人が失望し、計画が狂い、損失を被ったでしょう。

コロナだけではありません。災害、病、事件・事故、トラブル、家族の問題・・・やりきれない、諦めたい、投げ出したい、現状だけを見れば失望しかない出来事が日々あるのです。

 

創世記のヨセフに起きた出来事は悲惨なことばかり。兄弟に妬まれ奴隷として売られる。異国のエジプトで一生懸命働きますが、嘘をつかれ牢獄に入れられます。牢獄で人を助けますが、その恩は忘れられ、ずっと牢獄のまま報われません。コロナのような病ではありませんが、人間の中にある罪という病に翻弄されました。しかし、その悲惨な中にも、いたるところに「神が」「神は」という言葉がという言葉が繰り返されます。目に見えない神は、目に見える状況の背後で共にいて、働いてくださる方です。

 

<共にいて支える神>

ヨセフは17歳で兄弟に売られてから兄弟との再会まで、20数年かかりました。苦しみに意味を見出せるようになるまでには時に時間がかかるのです。しかし、ヨセフの人生で一番暗かった牢獄での時期、「主(神)がヨセフとともにおられ」(39:2,3,21,23)と4度も出てきます。人生のどん底でヨセフが倒れないように、投げ出さないように、苦しみがやがて救いへとつながるように、神が共にいて助けてくれたのだと、繰り返されています

最悪の状況(バビロン捕囚)に直面した人々に神が語った有名な言葉があります。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」エレミア29:11

神が共にいて、「だいじょうぶ、私がいっしょだ。私が助けると」この言葉を日々私達の胸に、心に、魂に語りかけてくださりますように。

 

<悪を善に用いてくださる神>

このヨセフの物語はわたし達に希望を与えてくれます。妬みによる人身売買という悪の行為が、エジプトの地にヨセフを送りますが、神はそこでヨセフを大臣とし、食糧備蓄という政策をさせ、結果的に多くの人を救うことになります。ヨセフ自分を売った兄たちに言います。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」創世記50:20まさに兄たちの罪による悪事さえも、神が万事を働かせて益と為してくださったのです。

このギリシャ語アガソスは「善」や「良い」という意味です。やがては「利益」が出る、とか、いつかは私達に都合「良く」事が運ぶ、という理解では正確ではありません。むしろ、神の目にとっての益です。必ずしもヨセフが出世し、幸せになったという目に見える状況が益ではないのです。

 

もし、ヨセフが積年の恨みと兄たちに復讐を果たしたら(そういえば今日は半沢直樹の最終回ですね。1000倍返しはどういう形で実現するでしょうか?)、それは痛快かもしれませんし、多くの人は満足するかもしれませんが、神の益ではないのです。

今回のヨセフの場面は、創世記50章、最後のクライマックスです。創世記は、罪の連鎖、復讐の応酬、堕落の螺旋階段、と表現した人がいます。創世記は、人が神よりも罪を選び、その傷が深く、広くなっていく話。夫婦が壊れ(3章)、兄弟が壊れ(4章)、親子が、家族が、共同体や社会が壊れていく。それでも神は人を諦めず関わり続けます。そして、最後の最後で、この赦しと救いの出来事が起こるのです。

 

ヨセフは言います。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりでしょうか。」(創世記50:19)蛇から「神のように」(創世記3:5)なれるよ、と誘惑され堕落した人間が、自分が神であるかのように振る舞い(創世記4:23~24)、互いに争い合い、怒り・悲しみ・恐れに満ちていた人間が・・・ついに、私を恐れないでください、私は自分を神としません、私はあなたを傷つけません、と言うのです。

そして言います。「ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」(創世記50:21)互いを恐れ合い、その恐れから傷つけ合い、奪い合ってきた人間の中に、赦すこと、分け与えることがみられたのです。ヨセフが復讐心から兄弟たちを手にかければ、イスラエル民族は終わりです。イエス・キリストは生まれず、神の救いと祝福は世界へとは及ばなかったのです。

 

ローマ8:28の約束は、「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」と続いています。「益」と、私達が「御子のかたち」(キリストの似姿)に変えられていくこと、とは深いつながりがあるのです。

状況が、環境が、相手の人が変えられることも、益でしょう。しかし、私達自身が変えられることこそが、キリストに似せられることこそが、本当の「益」なのです。この約束の前に、「神のご計画に従って召された人々のためには」(ローマ8:28)とあるように、私達は、神に召されて、神に呼ばれているのです。罪の連鎖を断ち切るために、周囲に祝福と救いをもたらすために、今それぞれの場に置かれているのです。

 

<困難の時をいかに生きるか>

そう考えると、ヨセフが、数日とか、数週間とかで救出されなかったことの意味が分かってきます。甘やかされ、奔放に育った17歳のヨセフ。しかし、穴の中の時間、売られてエジプトに引かれる旅の期間、召使いとしての期間、牢屋での期間、牢屋で忘れ去られた期間(41章)、その他記されていない様々苦労の期間を経験しました。恐らくその1分1秒が必要だったのです。

それは私たちと同じように罪の病に侵されたヨセフが、神を知り、神とともに歩み、キリストの愛と赦しの姿へと変わるための時間だったのです。ローマ8:28の約束は「神を愛する人々・・には」とあります。私達は困難の中で神を無視することも、神に目を向け愛することも出来ます。そこが私達の分水嶺です。困難の中でも神を愛する私達は、目の前の出来事によってくじけたり、投げ出したりはしません。困難の背後の神の計画を信じます。この出来事にさえ意味があったと、神は悪を善に変えてくださったと言える日が必ず来ると信じています。

 

<今週の黙想>ローマ8:28、エレミア29:11を暗唱(記憶)してみてください。難しい状況に直面した時、「神はそれを良きに変らせて」(創世記50:20口語訳)くださると信じ、歩んでください。

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