5月24日の礼拝

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おざく台教会では、ZOOMで礼拝や聖書の会を行っています。ご希望の方は気軽にお問い合わせください。
礼拝:日曜日10時30分~
聖書の会:水曜日10時~、19時~

おざく台教会2020年5月24日「やり方より、あり方」

<聖書:テサロニケ人への手紙第一>
5:10 主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。・・・
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

<ファミリータイム:お話し「牢屋での讃美歌」、こども讃美「僕の心の中が」>
16:24 この命令を受けた看守は、ふたりを奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。(使徒の働き)

<「新しい生活様式」よりも、「新しい心」を。>
一時的にかもしれませんが、コロナウイルスは落ち着きを見せ、コロナ後の世界についても語られるようになりました。その中で「新しい」「新しく」という言葉をよく耳にします。新しい生活様式が発表されました。学校では、9月入学制度やウェブ授業の拡大など新しいシステムが検討されています。
この機会に何が大切か、何を変えても良いかを見極め、新しい方法論を模索し、新しい様式へと移行していくこと、それ自体はとても良いことだと思います。

しかし、ここ数か月、私達の生活様式や、私達の社会システムなど、私達の「やり方」以上に私達を悩ませたものがあります。それは、わたしたちの心、私達の「あり方」でした。
コロナ鬱、コロナ離婚、コロナ虐待、などの言葉がありますが、ここ数か月、私達はいつも以上に、不安定になり、傷つきやすく、苛立ちやすく、疑いやすくなりました。それは私たちの内側だけにとどまらず他の人へ向き、批判的、差別的、攻撃的な言葉や行動が、社会にあふれました。私達人間の内側にもともと潜んでいた弱さが、冷たさが、醜さが、身勝手さが、コロナの影響で今まで以上に表れたのです。
ある人は、私達の心を、罪という病にかかっている、と表現しました。その病はコロナの前からあり続け、コロナによって今まで以上に表れ、コロナ以降も残り続けるのです。

補足:コロナで再び注目を浴びたカミユの「ペスト」という作品はこのように終わります。『ペスト菌はけっして死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類の中に眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古(ほご)の中に辛抱強く待ち続けていて、そして恐らくはいつか人間に不幸と教訓をもたらすためにペストが再びそのネズミども呼び覚まし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうということを。』カミュの『ペスト』は1947年に執筆されましたが、1945年に終わった第二次世界大戦、ナチスや戦争をベストに例えたといわれます。ペストは1つの感染症ですが、もっと大きな、人間を陥れる不幸すべてであり、『その大きなものに対して、きちんと立ち向かえよ』というのが、カミュのメッセージだとされています。

だからこそ私達は「新しい生活様式」以上に、「新しい心」を求めたいのです。私達一人一人の内側にある、人間全体の持つ、罪の病にこそ向き合う必要があるのです。コロナ以降も、私達は、教会は、新しい方法論、「やり方」を求めるだけでなく、新しい「あり方」、罪の心が取り扱われ、変えられていくことを第一としたいのです。

「いつも落ち込んでいなさい、絶えず諦めなさい。すべての事について不満を言いなさい。」これは罪にあって悪魔が私達に望んでいることです。しかし、神は言われます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

<「やり方」より「あり方」を>
過去の教会のメンバーは、感染症ではなく、ローマ帝国による迫害によっていのちを脅かされていました。ユダヤ宗教からの批判に心を悩ませていました。パウロはステイホームどころかステイ牢屋、外出自粛どころか、鎖で動けない。パウロだけでなく、初期のクリスチャンもカタコンベと呼ばれる、地下の墓地で息をひそめていたこともありました。心身のストレスは今日以上です。もちろん現状をどう打破していくか、様々な「やり方」に知恵を絞ったでしょう。けれど、そんな彼らに、パウロを通して神様は「あり方」を語ります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」

実際パウロ達は、牢屋の中でどうしていたでしょう。歌っていました。釈放のための手立てを尽くすこともしたかもしれません。しかし、それ以上にパウロ達の心は神に向いました。賛美とは、喜びの歌であり、祈りの歌であり、感謝の歌です。「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。」パウロ達のあり方は、この言葉の通りでした。看守はパウロ達の身体を縛り閉じ込めることは出来ても、心を、縛ることは出来なかったのです。
そして、獄中で歌うパウロ達の「あり方」は、周りの囚人や看守の心にも響きました。そしてこの後、看守は、パウロ達にたずねるのです。「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」

先日のZOOM礼拝、みなさんの明るい顔を見、声を聞くことができてとても嬉しかったです。周囲に暗い顔をしている人が多い中で、暗いニュースが流れる中で、みなさんの姿に、「あり方」に勇気づけられました。思い返すと、あのピンクの礼拝堂に集えていた時も、みなさんの互いの笑顔に、思いやりに、痛みの中でも懸命に生きる姿に、どれだけ勇気と力をもらい、神様へと目を向けさせられたのでしょう。

私達の「あり方」こそが、神様を証しします。私達の喜びは目の前の状況を超えた希望があることを指し示します。私達の祈りは、魂のよりどころがあることを指し示します。私達の感謝は、注がれている恵みを指し示します。目に見える私達のあり方が、目に見えない方を指し示すのです。

「喜んで、祈って、感謝して」という言葉は、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」と続きます。神様が何より心にかけているのは、私たちの行動、功績、所有物などの「やり方」以上に、私達の心や存在そのもの「あり方」なのです。

<「あり方」の源>
ある心療内科の先生は、「不安や我慢は心のエネルギーをものすごく使うものであり、心のエネルギー切れが全ての世代に表れている」、と語っていました。私達は心のエネルギーが切れると、喜ぶどころか悲しみ、祈るどころか諦め、感謝するどころか不平不満を言う存在です。パウロ達の、喜ぶ力、祈る力、感謝する力はどこから来るのでしょう?

少し前の10節を見ると、「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」とあります。キリストが私達のために十字架で死なれたこと(愛を示されたこと)、キリストが共にいてくださることが約束され、その後「あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。」(24節)には最後まで責任を持って助けてくださることが約束されています。

信仰の先輩たちは、
キリストが私達のために死なれたので、その大きな愛を喜ぶことができました。
キリストはよみがえり今も共にいてくださるので、確信を持って祈ることができました。
キリストは生きておられ私たちの思いを超えてよくしてくださるので、どんな状況でも感謝することが出来ました。
キリストのゆえに彼らの心は、悲観は喜びに、諦めは祈りに、不平は感謝に変えられました。
宗教改革者マルチン・ルターはこのように語りました。
「キリストが昨日、十字架にかかり、
今日、復活し、
明日、再び来られるかのように、生きなさい。」

私達も牢屋の中で鎖につながれているかのように感じる時が今までもあり、これらかもあるかもしれません。
しかしキリストは、牢屋でも閉じ込められず、鎖でも縛れない、新しい心をあたえてくださいます。
そのような新しい心で私たちが生きる時、私達のあり方が、誰かの希望と救いにつながるのです。

<今週の黙想>
「いつも喜んでいなさい。 絶えず祈りなさい。 すべての事について、感謝しなさい。」このことを大切に新しい週を歩んでみてください。力を失う時、「キリスト賛歌」と呼ばれるコロサイ1章を読んでみてください。

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