1月18日のメッセージ
2026年1月18日「キリストの福音⑥」 マルコの福音書2章14〜17節
14イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが取税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。15それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。16パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」17 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」
<視線の温度>
私は以前、8年ほど幼稚園の園長でした。その経験を通して教えられたことは、教会でも大切にしています。その一つに『視線の温度』というものがあります。
国立小児医療センターで行われた、東京中の保育者が集まる研修会で、クリスチャンでもある田中哲先生は問いかけました。「あなたのこども達を見る『視線の温度』はどのようなものでしょうか?冷たい目つきですか?あたたかいまなざしですか?」と。
冷たいめつき:欠点・未熟な点・悪いところ、に注目する
あたたかいまなざし:存在そのものを喜び、少しでも伸びてきたところに注目する
幼児教育では子どもを宝物のように大切にします。こどもが何ができるか(Doing)、何をもっているか(Having)、それは理由にはなりません。できなくて、もっていなくて、当たり前なのがこどもです。こどもが、眼の前に生きているから、存在しているから(Being)、それを理由に、愛し、尊びます。まず、眼の前のこどもを、生きているだけで宝のようにみつめるのです。保育はまなざしから始まる、と教えられました。私はこれは教会でも同じだと思うのです。
残念ながら、私たち人間は冷たい目つきが得意です。最初の夫婦アダムとエバが、互いを責め合って以来、人は冷たい目つきで、互いの弱さ、足りなさを、指差し合い、比べ合い、裁き合ってきました。(そして、アダムたちがイチジクの葉で、互いの欠点を隠しあったように、自分の弱さや醜さを隠し、問題のない立派な自分を演じ、尊ばれようとします。)
イエスの時代には、宗教こそが基準でした。あなたはこんな罪を犯した、あなたはこれが出来なかった、と裁き合いました。戒律に反したり、守れなかったり、乏しさや病などの問題を抱えた人は、「罪人」(つみびと)というレッテルを貼られ、見下され、居場所を失っていたのです。逆に、宗教の戒めを守れる人は、宗教行為というイチジクの葉を貼り付け、自分を「義人」だと誇りました。そんな比べ合い、計り合い、裁き合う目つきが溢れていたのです。しかし、イエスの視線は違いました。
<キリストのまなざし>
2:14イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、「わたしについて来なさい。」と言われた。すると彼は立ち上がって従った。
「収税所にすわっているのをご覧になって」とあります。当時、ユダヤの人々はローマ帝国による重い税金で苦しんでいました。その税金を、収税所で集めるのが取税人ですが、その役割をユダヤ人がするのですから、人々の目には裏切り者・非国民と映りました。さらに、取税人はその立場を悪用し私腹を肥やす場合が多く、このレビも例外ではないでしょう。自分の内側の、弱さや、欲、罪深さに負け、他の人を苦しめたのであり、見下されても文句の言えない人でした。
ですから収税所に座っている取税人を「ご覧になっ」たら、普通は呼ばないのです。目を背けるか、睨みつけるか、軽蔑するかです。けれど、イエスは社会的にも、宗教的にも、人格的にも、問題を抱えた「レビが収税所に座っているのをご覧になって」招くのです。「わたしについて来なさい。」
この言葉に弟子たちは驚き、戸惑いました。周囲は批判します。けれどイエスは、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」と言うのです。
イエスは弱さに負けていたレビを、医者を必要とする病人として、神を必要とする罪人、神に愛されている罪人、として見たのです。イエスの瞳には、この取税人のレビですら、大切な存在として、神の子として、宝のように写っていた。だから招いたのです。
聖書でも大切にされている言葉に、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43:4)、があります。この、「わたしの目には、あなたは」というのが大切なのです。自分で自分をどう考えるか、人があなたを動見るか、はもちろん大事。けれど、、神の瞳にはあなたはどう写っているか、それを忘れないでください。この言葉は、私達が、弱く、醜く、おろかで、最も罪深い時でさへも、語りかけられているのです。
<冷たい目つきのない場所>
2:15 それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。
場面はレビの家の食卓に移ります。食卓は交わりの場です。一緒に食事をすることは、その人の友・仲間であることを意味しました。イエスは、宗教的でなかったり、嫌われたり、人々から冷たい目つきで見られていた人、取税人や罪人と共に食卓についたのです。
私はこの2章15節(そして古いですが新改訳の第二版の翻訳)が大好きです。「こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。」これは私が願う教会のあり方です。
「こういう人たち」、問題を抱え、立派さがなく、周囲から嫌われたり、見下されたり、冷たい目つきで片隅へ追いやられ、傷ついていた人たち、悪に負けたまま自分を変えられない人たち、そのような人たちがイエスと一緒にいた。言い換えれば、彼らは、負い目や責めを感じずに、安心してその場にいられたのです。
人は、冷たい目つきの場所にいると、居心地の悪さや息苦しさ、不安や恐れを感じます。まして痛みがある時、問題を抱えている時、過去に傷つけられたり、見下されてきた場合、とてもではないですが、そんな場所に留まることはできません。けれどもイエスの食卓にはそれがなかった。イエスは、彼らの問題や傷や罪を知りつつも、責めたり、裁いたり、見下したりはしなかった。むしろ、彼らの存在が尊ばれ受け入れられた。(田中哲先生風に言うなら、暖かいまなざしで見つめられていた)。だからこそ「こういう人たち」は安心してその場にいられたのです。
この箇所を読むと私にとって大切な2つの場面が思い出されます。
1つは、幼稚園の保護者の方が開いた、ピアノ発表会です。その発表会には、園児・卒園児たちを含め、いわゆる障害を持ったこどもも、多く登場しました。
けれど、彼らを見つめる周囲のまなざしがとてもあたたかいのです。あたたかな雰囲気で迎えられ、真剣に演奏が聴かれ、心からの拍手が送られます。その場にいて泣けてきました。
このような温かな眼差しがあふれる教会でありたい、そう願いました。
もう1つは、ある小さな教会です。その教会はキリスト教の基準から言えば、失格の烙印が押される教会とも言えます。いわゆる立派な人はいません。離縁なさったり、結婚詐欺にあったり、シングルマザーになったり、病気の人、障害を抱えた人、家族や経済の問題に悩む人、問題のない人なんて一人もいなかった。礼拝だって10時半に始まらない、週報が出来てない、メッセージも解説書見ながら話してる。礼拝中に牧師と長老で一悶着あったり・・・どこを見ても、失敗ばかり、弱さばかり、 問題ばかり、傷ばかり・・・
でも、あれほど慰めのあるあたたかい教会を見たことがありません。誰も人を裁いたりしない。みんな問題を抱えてるから、全然自分を誇れない。責めたり裁いたりする余裕がない。冷たい目つきが存在しないのです。
だから、自分を飾る必要がない。立派な自分を演じなくていい。いちじくの葉がいらないのです。自分の弱みや問題を安心して出せる、自分は魂の病人だ堂々と言えるのです。噂を聞きつけて、他の教会の方、牧師や長老までもが、やってきて慰められて帰っていく。(ほんとうはみんな問題を抱えているのです。それが教会で出せないのです。)ひたすら魂の医者であるイエスにすがる、人と比べずただ恵みの神様だけをみんなで見上げる。
そして、傷ついた人が悲しみの底から少しずつ立ち上がれたり、不思議なことに、毎年のようにキリストと出会い洗礼を受けていく。教会とは、今日のようなイエス様の食卓、イエス様のまなざしが満ちている場所なのだ、と改めて感じました。
私達は、パリサイ人や宗教家のような冷たい目つきで、人を、そして自分を見つめないようにと気をつけています。そして、願わくはイエス様のあたたかなまなざしで自分を、そして互いを見つめたいと祈らされています。
このレビの箇所を見れば分かるように、人は優れたから、変えられたから、神に愛されるのではないのです。愛されたから、愛のまなざしを受け続けたから、変えられるのです。
この収税人レビは後にマタイと呼ばれます。彼は単なる弟子でなく、12弟子になりました。自分可愛さに人から奪い、人の人生を狂わしてきたレビが、イエスとの出会いを通して、人に仕え、人のために最後は自分を捨て、殉教(アフリカのエチオピア)するまでになっていきました。また、マタイの福音書を記し、多くの人に希望を届けました。まず愛されたからです。
私達は、収税所に座っていたマタイのように、問題や、傷や、罪を抱えています。どれだけ醜く、汚れていても、それでもイエスは、愛のまなざしで私たちを見つめ、ご自身へと招きます。あなたは、あなたの周りの人は、神の目に尊い、大切な存在です。

