10月26日のメッセージ
2025年10月26日 「神の愛を受け入れ、それに生きる」 Ⅰヨハネ4章7~10節 斎藤義信
「7愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。8愛のない者に神は知りません。神は愛だからです。
9神はひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。10私たちが神を愛したのでなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
<神の愛について>
私たち人間は生まれながら罪深い性質があります。生まれて間もない子を見るとこんなかわいい子のどこに罪の性質があるのかと思うことがあります。しかし、その罪の性質は人間の成長とともに知恵がつき、自分の考えを持ち始めると形や方法を変えて現れてくることを思います。ガラテヤ人の手紙の中には具体的な人の罪の内容について記されています。5章19節「肉のわざは明らかです。すなわち淫らな行い、汚れ、好色、20偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、遊興、そういった類のものです…」
私は20才の時に信仰に導かれました。大学に入り、「さあ、これから…」という時に五月病になりました。日夜、虚無感に襲われ、学びやバイトをしながらも悶々とした日々を送っている中でイエス・キリストに出会いました。前にもお証させていただいた事ですが、初めて行った教会の印象は私の浮足立った学生生活の歩みと違い、確固とした人生の歩みをしている若い人たちがいるという印象でした。聖書のお話はチンプンカンプンでしたが、ある時このガラテヤ書の人の罪について知らされた時にその罪の一つ一つがズキッズキッと心に刺さり、私は「ああ、なんと自分は罪深い者か」と、思い知らされたことを覚えています。この罪の意味が、どれも当てはまり、今まで当たり前に思っていたこと、していたことが罪であると教えられて初めて自分自身を客観的に見るようになりました。
私は自分が罪人であるということを教えられ、すぐにその罪がなくなるわけではなく、依然として罪人であることに変わりはない中で、与えられた御言葉がⅠペテロ2章24節「イエス・キリスト自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは私たちが罪から離れ、義のために生きるため。その傷のゆえに、あなたがたは、いやされました。」です。
本来、自分で悪いことをした罪は自分で解決しなければならないのに代わってキリストがその身に負って下さった、という事実。初めはそんなことで本当に罪赦されるのか、と思いましたが、少しづつですが、その意味は自分が赦されるということなんだ、ということが分かり始め、これがキリストの赦しの愛なんだという理解に変わって行きました。なんと神の愛は深いものなのかということを徐々に知らされて行きました。
<人間的成長のための①>
ポール・トゥニエというスイス人で50年ほど前になりますが、精神療法を中心とする内科医で診療をし、また聖書を基盤にして多くの書物を書き残している方がおります。私は信仰をもってから人に勧められて彼の本を読み始めました。著書の中の1冊に「人生の四季」という本があります。細かく春夏秋冬を分けているわけではありませんが、人間の一生を四季になぞらえてその春ともいうべき幼年期から冬(=死)いたるまでの各時期の人間の心理が著者の長年にわたる豊かな診療の経験から語られています。また聖書を土台とした診療の様や、本人の実体験や患者さんの生き方が描き出されています。
その中で夏にあたる「子供から大人への成長」という、成長のために重要な役割を果たす要因がある、と言っています。
第一が「愛」というのです。愛情は幼い頃から親の愛、人の愛を感じて成長されていくものです。これが極端にかけてしますと年齢が進んでから真の大人として成熟することが妨げられてしまう、といっています。犯罪に結びつくことなどは一例かもしれません。更に彼が指摘することの一つに「ノイローゼ」があります。今では余り使う言葉ではありませんが、「鬱的症状」というのでしょうか、これはある程度までは世界中の人間全体に見いだされる、と言っています。それは人間形成の上で人の愛や両親の愛だけでは、たとえそれが、どれほど大きくてもそれだけでは子供の欲求を完全に満たすことは不可能であると言うのです。我々人間の愛だけでは何が足りないのか、ということについて彼の実体験の中で「神の愛」に触れて感じることが出来たというのです。というのは彼は幼少の頃に両親を失い、不安と戸惑いの中にあったとき神の無限の愛の手にとらえられた時に初めて、この孤児という運命のもたらした打撃の傷から癒されたというのです。
聖書の中で幼子たちが、イエス様のところに来ようとしたときに、弟子たちはそれを妨げようとしました。「イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。」マルコ10章14節。何故主は、弟子たちを叱られたのか?それは弟子たちも善意で日々忙しくされている先生を子供たちのことで煩わせたくない、そういう思いが働いたのでしょう。しかし、イエス様は幼子たちの性質を知り尽くし、これから成長していくこの子供の心に先ず必要な、「神の愛」を自らお与えになったのです。更にその周りにいる大人たちに教えられようとされたのではないかと思います。
預言者エレミヤに語られた神の言葉がエレミヤ書1章5節「わたしはあなたを胎内に形作る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し…」なんと神様は私たちが生まれる前からその御手の内に育んでくださっているのだ、ということです。当然、生まれて成長していく過程で私たちはこの神の愛に触れ続けることで人間としての人格形成がなされ、大人としての人間の分別がついていくのではないかと思います。トゥルニエの言う神の愛とは神の言葉、聖書から生み出されてくる一つ一つの言葉であることを教えようとされたのではないでしょうか。
<人間的成長のための②>
そして成長要因の第二は「苦悩」だ、というのです。人生の中でこの苦悩を体験すれば、さらに先に進むことが出来る人を多く見てきたと語っています。自分のことばかりを語って恐縮ですが、自分が信仰に導かれ、神の愛に触れるに至るまでには大きな苦悩がありました。大学に入った後に、その苦悩、苦痛はじわじわとやってきました。人生に挫折感を覚え、どうにも前に進むことが出来ない、毎日が暗く、悶々と過ごす日々に何か活路を見出すものはないのか、と思ってアルバイトをしたり、遊興に耽ったりしましたが、その時は、一時的な満足は得られてもまた後から来る虚脱感は耐え難いものがありました。そういう日を1年半ほど送っていました。
聖書の中にも苦難や苦悩を強いられている箇所が多く出てきます。ヨハネ伝9章に出てくるイエス様によって癒された盲人がいます。彼は生まれつき、目が見えずに苦しんでいたところをイエス様に出会い、闇の世界から光の世界へ導かれて行きました。暗い、長い闇の世界で何の希望もなく苦悩していました。しかし、イエス様に出会い、目が癒された後は本当に闇から希望へと変えられました。
しかし、彼が開眼した後にあるユダヤ人たちに文句をつけられる場面があります。しかし、彼は彼らたちの言葉に反論したためその群れから追い出されてしまいます。それを聞いたイエス様は彼を見つけ出して「あなたは人の子を信じますか」と問いました。その時に彼は信じますと言って今度は心の目が開かれました。彼は闇の世界という苦痛から、そしてユダヤ人たちの仲間から疎外される苦しみの中からという、二度の苦難を通して本当の神の愛を知ることが出来ました。
この苦難、苦悩や逆境がどれほど神に近づけ、神の愛に触れるきっかけになるかを教えてくれます。
神の愛を知り、受入れるということは簡単のようですが、私たち人間の心変わりも常にあって弱く、神様を忘れてしまうことも多くあります。しかし、忍耐強い神様はそういう私たちの心に寄り添い、事あるごとに聖書を通して、お話を通して語り続けてくださって励まし、力づけてくださいます。様々な問題や苦難、孤独の中に置かれている方もいらっしゃると思いますが、どうぞ、今週も主を慕い、歩んでいただきたいと思います。
