10月19日のメッセージ

2025年10月19日「キリストの福音③」マルコの福音書1章

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9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。・・・

1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

1:14 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた

1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 

<苦しみの地、荒野に来てくださるイエス>

「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(1:1)、として、洗礼を受けたイエスが、次にしたことは荒野(あらの)に行くことでした。この出来事も私達への良い知らせ、福音なのです。

 

荒野とは、岩石だらけの荒涼とした場所、日中は焼けるような暑さ、夜は凍えるような寒さ、食料や水に乏しく、猛獣や毒蛇の生息するところ。数時間だけならまだしも、長く耐えることができません。

荒野には苦しみが、危険が、乏しさが、孤独がありました。人の心も身体も、魂も弱くなる場所、人の弱さや醜さが隠せない場所です。

かつて、エジプトを出て約束の地に向かっていた人々は(出エジプト記)、荒れ野の過酷な環境や乏しさに直面した時、心は恐れや不平不満に満たされ、神への反抗を繰り返し、結果的に40年間も荒れ野をさまようことになりました。

ですから、荒野とは、聖書においては、苦難、試練、誘惑の象徴であり、ユダヤの民にとっては、失敗と敗北の場所です。

 

ところがイエスは、洗礼を受けると、街へ向かうのではなく、荒野へ向かいます。なぜなら、私達もまた、荒野のような、乏しく、心細く、長く辛い、試練の日々を過ごすことがあるからです。そんな私達のために、イエスも荒野で40日を過ごされたのです。

 

<荒野の意味を変えたイエス>

信仰を持てば、問題は遠ざかり、良いことばかりが起こる・・・という訳にはいきません。祝福とも言える素晴らしい日々を過ごすこともあれば、苦難の中で、試練の中で、心が揺さぶられ、信仰が揺るがされる日々を通ることもあるのです。

 

繁栄の神学というものがあります。信仰があれば、神に祝福され、健康的に、社会的に、良い方向へ向かい、成功し、豊かになるというものです。一方で、困難や不幸が襲えば、それは神に愛されていなかったり、信仰に問題がある、とも受け取られます。これでは当時のユダヤ教の教えと一緒です。

しかし、誰よりも、きよく、正しく、神に愛されたはずのイエスも試練にあわれたのです。困難は、試練は、神の愛や信仰の欠如ではないのです。どうか、苦難や試練にあっても、自分は神に見捨てられたとか、自分が悪かったので罰を受けているとか、思わないでください。

御霊はイエスを荒野に追いやられた。(12節)とあるように、神に愛されているものこそが、荒野を通ることもまたあるのです。

 

そして、試練にあっても、けして、もうだめだと失望しないでください。「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。」(13節)

イエスは、あえて荒野にいかれ、悪魔(サタン)の誘惑を受けました。身体も心も試練にあいました。ファミリータイムでも紹介しましたが、マタイの福音書でかつてユダヤの民が敗北した悪魔の誘惑に対して、聖書の(申命記の)言葉で打ち勝つという、場面が出てきます。

ところが、マルコではたった1節。誘惑があった、獣の危険があった、でも天使たちがイエスに仕えていた(つまり神の守りもまた試練とともにあった)、そして、イエスは荒野の誘惑を通り抜けた、これがマルコが示す福音です。ユダヤの失敗の歴史を塗り替えた、神の支えがあれば、悪魔の誘惑に敗北することはない、と身をもって示したのです。

 

試練の中にも、神の助けがあるのです。イエスは一人で試練にあったのではない。

10 天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。・・・13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。

御霊は神の臨在(共にいること)、御使いは神の守り、時に信仰の仲間とも理解されます。私達が通る荒野でも、試練の中に、神の助けはかならずあるのです。

 

<苦しみを知る神>

また、イエスが試練を乗り越えられたことだけでなく、受けた苦しみ自体にも意味があります。

「私たちの大祭司(イエス)は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」へブル4:15

聖書は、イエスは試みを受け、苦しみを身をもって知った。だからわたしたちの弱さに同情できるのだ、というのです。私達が体験する恐れ、乏しさ、心細さ、辛さ、イエスは荒野で、そしてその生涯で、私達以上に味わい、私達の心がわかるのだ、というのです。

 

その箇所はこう続きます。「 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり」へブル5:8~9

イエスは、試練を通して、苦しみを通して、学ばれた、完全なものとされた。というのです。完全さとは、何かを悟ることや、完璧さ、傷のなさとは違います。むしろ、傷があること、痛みがあること、試練を通っていること、苦しみを身を持って知っていることなのです。

 

私達の痛みも悲しみも知らず、遠いところから見下ろす神が救いとなるでしょうか?そこから下り、私達のところへ来て、わたしたちよりはるかに低く遜り、私達以上に苦しみも悲しみも知る(ピリピ2章)、そんな神だからこそ信頼できる。神は、私達の苦しみを身をもって知り、心からの憐れみをもって、十字架にかかり、私達の救いとなったのです。

 

<試練の意味を変えるイエス>

イエスにとっての荒野は、ただの苦しみの場ではありませんでした。確かに聖書では、荒野とは、苦難の場所でありながら、同時に神との出会いの場、神が私達に対して大切なことをなさる場でもあります。

40日、というのは、神の取り扱いを意味します。シナイ山で40日を過ごしたモーセ、ノアの洪水の40日、40日歩いた傷心のエリヤ(Ⅰ列王記19:1~8)、そして、荒野の40年。それは喜ばしくないことかもしれませんが、後に大きな意味を持つ期間となりました。

 

「荒れ野の40年」という有名な演説があります。1985年5月8日、ドイツのヴァイツゼッカー大統領によるもので、ドイツの敗戦後の40年と、荒野での40年間を重ね、「過去に対して目を閉ざすものは、現在に対しても盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、同じ危険に陥いる。 」という言葉で有名です。

苦難と失敗の歴史を意味あるものとするか、それから目を背け、再び同じ過ちを繰り返すのか、そういう岐路に立っているのだ、ということを聖書の記述に基づいて象徴的に表現し、「自由を尊重しよう。 平和のために尽力しよう。 公正をよりどころにしよう。  正義については内面の規範に従おう。 今日五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。」と結ばれます。

 

人の目には、無意味や、ナンセンス、避けるべきものとして映る荒れ野の40日。けれど、神様の目にはちゃんとした意味があった。神とともに過ごすとき、荒れ野は、わたしたちにとって大きな意味を持つのです。

 

聖書では、こころみ、という言葉は、ハルバグモスという言葉です。これは、文脈により、誘惑とも試練とも訳されます。ただの苦しみや誘惑ともなりえますが、神とともに過ごすなら、試練を通して、神は私達を取り扱い、良いものを生み出しうるのです。

私達が体験する荒野も、神の恵みを体験するときとなったり(第二コリント12章)、私達自身が磨かれたり(ヤコブの手紙1章)、自らの悲しみの体験を通して誰かの悲しみに寄り添うことができたり、そのような意味を持ちうることもあるのです。

 

試練に合われ、苦しみを知るイエスが、そのような救い主が、荒野でもあなたと共にいる、そのことに励まされながら、この方とともに、一週間を歩んでください。

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