8月17日のメッセージ

2025年8月17日おざく台キリスト教会「キリストに倣う」

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<聖書>

21 あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。23 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

 

<本当の人間性>

世界には様々な生き物がいます。生物としてのヒトは、「賢い人」という意味の、「ホモ・サピエンス」という名前で分類されます。
1.直立二足歩行(両腕が自由に使える)、
2.脳容量が1リットル以上(1300〜1400mlほどで遺伝子的には近いチンパンジー・オラウータン・ゴリラの3倍ほど)
3.体毛がない(熱を発散しやすいため長時間の運動に適している)、
などの生物的特徴があります。では、ヒトに分類されれば、本当に人間と言えるでしょうか?

先週は先の大戦から80年目の終戦の日でした。しかし今日でも、人間を人間扱いせず平気で命を奪う行為が堂々と行われています。人権を軽んじ、優劣や順序を付け、立場の弱い人をないがしろにする主張が、平然と語られています。「ホモ・サピエンス」「賢い人」であるはずの人間が、その知恵を使って、手を使って、愚かな獣のように振る舞ってしまうのです。

本当の賢さとは、本当の人間らしさとは何でしょうか?聖書で、人間とは、「アンスローポス」、「顔を上に上げる者」、という言葉が用いられています。天を見上げてこそ、神を見上げてこそ、ヒトは人間らしくあることができる、そんな意味をこめ聖書にこの言葉が使われたのだと思います。
創世記4章、カインとアベルのエピソードでは、カインは『顔を伏せ』と繰り返し出てきます。天を見上げず、顔を伏せ続けたカインは、次第に人間らしさを失い、妬みにかられ愚かになり、まるで獣のように弟アベルを手にかけます。その姿に私達の人間の歴史が重なります。

では、信仰があれば、神を信じる者は、本当に人間らしいとのでしょうか?十字軍、戦争の歴史、ルワンダの虐殺、今日のニュース、それらをみれば、信仰は人間性の保証しないことは明白です。

カインとアベルは、神を知り礼拝もしていました。今日なら、カインも、キリスト教国に生き、キリスト教徒であり、教会礼拝に通う存在と言えるかもしれません。しかし、カインの例を見れば、今日のキリスト教を見れば分かるように、キリスト教文化に生きることと、神とともに歩むこととはまた別の話なのです。私達信仰者もカインのようになりうるのです。

<キリストの示した人間性>
一方で、天を見上げ、人を愛し、人に奉仕し、生き抜いたのが、イエス・キリストです。立場の弱い人をこそ尊び、悲しむ人に寄り添い、汝の敵を愛せよ、と説き、罪を身代わりに背負い十字架にかかったキリストの姿には、今日を生きる私達に必要な、本当の人間性が、神の心が完全に表されています。(『御子は・・・神の本質の完全な現れであり』ヘブル1:3

教会の伝統も大切です。聖書を解釈した様々な教えもあります。それは、ある時代、ある状況での、ある信仰者の応答であり、良いものかもしれません。
けれど、私達はキリストのあり方にこそ学びたいのです。キリスト者、クリスチャンとは、もとは、「クリスティアノス」、という言葉です。キリスト派の人、のような意味であり、キリストに属する者、キリストに似た者、キリストに倣う者と言う意味が込められています。

ファミリータイムで、ヨハネ8章の、律法では死刑になるはずの女性を、イエスが救った話を聞きました。旧約聖書の伝統に生きるものなら、聖書に反するありえない話です。けれど、山上の説教では、聖書はこう言っているが・・・、とそれを上書きして述べます。(『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。マタイ5章27〜28)キリストこそが私達の律法なのです。

青山学院大学の宗教部長である塩谷先生は、伝統でも、慣習でも、前例でもなく、究極的には聖書の一文でなく(記され方や私達の読み方に限界があるため)、聖書が示す新しい律法であるキリストの言動こそに倣うべきだと説きます。「移り変わる時代の中で最も大切にすべきもの、キリスト者にとっての『憲法』とは何かを問い続けてきました。そしてその答えはいつの時代も『イエス・キリストの存在とその言動』であると確認してきたのです。」(LGBTとキリスト教P28)

どうかキリストのあり方に、キリストの言葉に、キリストの振る舞いに、こそ目を向けてほしいのです。教会は、牧師は、キリスト教国は、様々な主張をするかもしれません。聖書が最もらしく引用されて、印籠のように突きつけられる時もある。(ルワンダでは、礼拝説教で他民族を殺せと訴え、賛美の後、虐殺行為へと出かけていったのです。パレスチナへの虐殺と侵略は、聖書を用いて正当化されています。)しかし、真に受けるのではなく、黙るのでもなく、キリストのあり方と、キリストの言動と重なるか、と常に疑っていただきたいのです。「キリストならばどうするか?」これが信仰者の問いです。

<キリストに倣う>
キリストの十字架は私達を救います。しかし、ただ十字架にかかるために来たのではないのです。その生涯を通して、私達に言葉と行動で、私達のあり方を示してくれました。

「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」第一ペテロ2:21

キリストは私達に足跡に従うように招いている。模範を残したとある。模範というのは、下書きした、という意味の言葉。小学校で平仮名や漢字をなぞりつつ覚えたときを思い返してほしいのです。はみ出したり、歪んだりする。でも、何度も何度も繰り返して、次第に自然と書き方が身についていくのです。私達も、失敗しても、うまくできなくても、キリストに倣っていきたいのです。

もちろん、キリストは、2000年前のパレスチナの地を歩まれ、当時の政治や文化の状況の中で、当時の人々に接した。キリストは、2025年の西多摩に住んでいない。会社員でも、学生でもない。それでも、私達は「キリストならばどうするか?」、考えつつ、祈りつつ歩み、それぞれの生活の場で、キリストの足跡を探し、その一歩一歩に、自分の足を重ねていきたいのです。

私達の心を、生活を、キリストの視点で見つめ直し続けたいのです。そのためにも、大切にしたいことがあります。自分を、責めすぎたり、低く見積もったりしていませんか?

キリストが今日の女性をどう見たか、キリストが人々をどう見ておられたか、忘れないでください。「私の目にあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と言われ、私達のために十字架についた、キリストのあなたへの思いをどうかいつも忘れないでください。

天を見上げる時、いえ、天にいながら、私達人間に寄り添うために、この世界に、この世界の最も低いところに来られたイエス・キリストを見る時、私達はほんとうの意味で人間らしくあることができるのです。

みなさんに、みなさんの周囲に、この世界に、キリストの平和がありますように。

 

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