6月1日のメッセージ

2025年6月1日「御心の再確認、めぐみの再発見」ルカ15章

 

<ルカの福音書15章>

20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』

22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。

23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。

24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』

 

<ファミリータイム:心と身体>

人間の胃酸は塩酸でpHは1〜2。金属さえも溶かしてしまいます。塩酸はそのままでは、危険なのですが、胃は粘膜により守られています。ところがストレスを感じると、粘液の分泌が弱くなり、胃液が胃を傷つけてしまう。胃潰瘍です。心の状態が身体にも現れるのです。

 

ストレスで胃が痛い、悲しみで胸が痛む、喜びに胸が高鳴る、希望に胸ふくらませる、心配で頭が痛い、腑に落ちる、断腸の思い、腹を立てる、血が騒ぐ、肝に銘じる、と言うように、身体と心とは深く結びついています。

今日は一つの大切な言葉を覚えていただきたいのです。それは「スプランクニゾマイ」という言葉です。『スプランクナ』は内臓を意味します。聖書のどの言葉でしょうか?

 

<神の良いみこころ>

主の祈りには、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」とあります。(みこころの直訳は、あなたの意思・望み、です。)

私達は自分の願いや意思を大切にしますが、それ以上に、神の心や願いを大切にします。(日本語に、運命、天命、定め、といった言葉がありますが、神の計画や、神の願い、など広い意味で理解します。旧約聖書では、人の求めに応じて神が対応を変える場合もあり、固定化されたものでなく、筋は通りつつも、柔軟で流動的です。)

 

キリスト教ではよく用いられますが、わたしは言葉としては、あまり使いません。誤った用い方をしたくないのです。誰かにつらい出来事が起きた時、「これも御心だから。」と無理矢理納得させようとする人がいます。これこそが「御心である。」と自分の意見を正当化したり、物事を都合よく運ぶために、用いる人がいます。

みこころを熱心に求めることは大切ですが、印籠のように、都合よく安易に用いてはならないのです。十戒には「 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。」(出エジプト記20章7節)とあります。

「天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ書 55:9)とあるように、神の良いみこころは、私達の願望や欲求よりも遥かに、高く、大きく、広く、深いのです。

 

神の良いみこころが明確に表されている箇所があります。場面は、イエスが当時の宗教社会から見下されていた人と共に過ごしていたため、宗教家は批判したところです。

そこで、イエスは、当時見下された人への神の心をあらわすために、1匹の羊が迷ったら、99匹を置いて探しに行く羊飼いの話、や失くなった銀貨の話、そして、家出した弟息子の帰郷の話を語ります。3つとも、失われたものを、取り戻す話であり、主人公は、探す人、羊飼い、女性、そして父親です。そして、テーマは、は取り戻した喜びであり、何があっても取り戻そうとする非常識なまでの姿です。

 

この『放蕩息子』と呼ばれる話もまた、当時の中東の文化では非常識な、あってはならない話でした。父親の存命中に財産を要求するなど、その場で殺されてもおかしくない話です。そして、身を滅ぼして、食べ物目当てに、何一つ持たずに帰って来る。無礼と不名誉の極みであり、決して、受け入れてはならないのです。

ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。』(20節)

『 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。』(22〜23節)

 

『ところが』『ところが』と続きます。非常識、ありえない、と繰り返されるのです。私達の常識ではありえない、ところが、そうなさるのが神だと言うのです。

父親がこのような行動に出たのは、理由がありました。『かわいそうに思い』(20節)行動したのです。これは憐れむという言葉です。この言葉が、「スプランクニゾマイ」です。「スプランクナ」は内臓を意味します。(古代の文化では、内臓にこそ心が宿ると考えられていました。)その、内臓がねじ切れるような痛みを伴う思い、断腸の思いです。

 

神は、罪人と言われる人の姿に、見下され、いないほうがよい、と決めつけられていた人の姿に、体に影響が出るほどストレスを、痛みを感じている、ということです。

「それゆえ、わたしのはらわたはモアブのために、わたしの内臓はキル・ヘレスのために立琴のようにわななく。(イザヤ書16章11節)」

 

神はそのように、痛みを感じながら私達を見ているということです。親しいという漢字は、墓(死)に代表される悲しみを共に見つめ味わうという意味の言葉です。私達の悲しみや苦しみを自分ごとのように悲しむ神です。

神は不動の遠くから見下ろす神ではない。影響され、痛みを感じ、それどころか、いてもたってもいられず、動き出してしまう神です。

『キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。』ピリピ2章6〜8節

 

マザーテレサが、愛は(名詞でなく)動詞です。と言ったのを思い出します。悪や横暴な侵略を見ても、瓦礫の下に潰され埋もれるこどもたちのいのちを見ても、過去や経済の都合で、だんまりを決め込む、人間の国家とは、違うのです。無限の神が、有限の人となり、乏しくなってまで、彼らの傍らに行く、与え尽くし、命まで捨てる、そのような憐れみです。

 

神の良いみこころは、間違いなくこの箇所に現れている。キリストの生涯に現れている。

私達を憐れみ、愚かなほどに、非常識に行動し、自分が傷つき、苦しみ、すべてを捨ててまで、私達を愛し、生かそうとする。それが神の心です。

この心がいつもあなた自身に、そして、隣の人に、そして、戦火や侵略や貧困や搾取に苦しむ人に向けられていることを、どうか忘れないでください。みこころを求めるとは、この神の『スプランクニゾマイ』の心を受け止めて生きることです。

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