2月23日のメッセージ
<創世記4章>
1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た」と言った。2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。3 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た、主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。7 あなたは正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
<献げる・捧げる>
キリスト教においては、ささげる(献げる、捧げる)という言葉がしばしば用いられます。礼拝をささげる、祈りを、感謝を、讃美を、ささげる、とも言います。司祭・神父・牧師・宣教師などになることを献身と言い、礼拝では献金があり、生活に困窮されている方々や被災地に物資を送るために献品をします。(『献げる』は、一般には、目上の存在に物を差し上げる、という意味で、献呈、献本、献血、貢献、献立などに使われます。)
*本日は補足資料も用意したので、お読みください
今日は人類最初のささげものの場面から、ささげることについて、再確認と再発見をしていきたいと思います。
<感謝ゆえに応答としてささげる>
3〜4節「アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た」
カインとアベルが神に作物や羊のささげものをします。何かを神にささげよという規則や戒律はどこにもありません。神様は一方的に与える方であり、人に養ってもらう必要はありません。しかし、カインとアベルは土地の収穫物や家畜の子をもって来た。神から与えられた糧や富の一部を、感謝の応答としてささげたのです。
私達はささげることを通して、私達は与えられているのだ、生かされているのだ、といことを再確認するのです。私達が神に礼拝や、時間や、献金や、労力を、ささげるとき、それは義務・規則・習慣ではなく、与えられ、生かされていることへの感謝なのです。
<多寡や質ではなく、心を大切にする>
4〜5節で、多くの人が疑問を抱きます。神は、アベルの捧げ物に目を留め、カインの捧げ物には目を留めなかった、なぜでしょう?
もう少し聖書をよく見たいのですが、「主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」とあります。
神が目を留めたのは、「ささげ物」ではなく、「アベルとそのささげ物」とあるのです。神様が目を留めた物でなく、アベル自身なのです。ささげ物にはアベルの心が現れていたのです。3〜4節には、「カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た、」とあります。
アベルの羊が優れていたとは記されていません。(もしかしたらアベルの羊たちはみすぼらしく、比べてカインの穀物は上等だったかもしれない。)けれど、アベルは自分の手の中に与えられているものの中から、最上のものを丹念に選び、心を込めて神の前に持ってきたのであり(ルカ福音書21章の貧しい未亡人の献金と通じます)、神はそこに現れたアベルの心を何より喜ばれたのです。(ヘブル人への手紙11章4節)
<心は上を向いているか>
もちろんいつもアベルのような心でいられればよいのですが私達は、日々の生活に、礼拝に、奉仕に、献金に、心がこもらないこと、あると思います。習慣や惰性で続けているときもあります。(それはそれで素晴らしいのです。形や行動から入り、後で心が伴ってくることも、しばしばあります。)
ただ一点だけ注意して欲しい。それは、感謝や喜びにあふれていなくても、私達の心は上を向いているか、いつも問うていたいのです。
この箇所で、顔を伏せた、という言葉が2度使われます。5節〜7節。「カインはひどく怒り、顔を伏せた。そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。あなたは正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
人間は新約聖書の記されたギリシャ語で『アンスローポス』(顔を上に向ける存在)、という意味の言葉です。古代から人はそのような存在だと理解されていたのです。
神がカインに言った「正しく行ったのであれば、受け入れられる。」という言葉、「受け入れられる」は、本来「上げられる」、という意味の言葉です。上や下というイメージが繰り返されるのです。「正しく行った」とは、「喜んで」という意味で、行動だけでなく心にも焦点があたっています。カインは顔が上に向いていなく、心が伴わないままささげ、その後いよいよ顔を下へと伏せてしまった。
そして、罪は戸口で待ち伏せし、と指摘された通り、心を伴わない下を向いた心で(神に向かない心で)いつづけ、人間らしさを失い、ついには弟アベルを手にかけるのです。
礼拝、奉仕、献金、その他私達が神と人にささげるものは、とても大切なものです。だからこそ、私達の心は揺さぶられます。聖書にも、宗教家が自分の献金量を誇ったり、弟子達が献身や貢献の度合いを比べ合ったり・・・その大切さゆえに、私達の心をどこか狂わせてしまう恐れがあるのです。(彼らは宗教熱心であり「上を向いて」いるつもりでした。しかし、鼻を高くしているだけで神様に向いていなかったのかもしれません。)
<上を向く理由>
もし宗教家や弟子たちがどこかズレてしまっていたとしたら、それは上を向く理由が間違っていたのかもしれません。彼らは交換条件のように、自分たちが差し出すものによって、神に顔向けしようとしていました。しかし、ヘブル10章にはこうあります。
「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」(10節)「キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」(14節)
神へのささげ物はすでにキリストがしたと言うのです。だから私達は聖なるもの(神と出会えるもの)となったと言うのです。そして、「罪のためのささげ物はもはや無用です。」と続きます。
神と出会うのに、神に顔を向けるのに、私達のささげものを、交換条件を必要としていない。私達がどれだけ、自分は罪深い、汚れている、相応しくない、神に顔向けできない、と思ったとしても、キリストが十字架で自身をささげ、すべての罪は赦された。私達はキリストのゆえに、どんなときも安心して上を向けるのです。
私達はひたすら愛され、生かされ、与えられている、だから、与えられた命を、身を、力を、時間を、富を、感謝の応答として、神と人とを愛するために、用いる私達でありたいのです。
<献金について〜賢く健全な教会であるために〜>
伝統的なプロテスタント教会では、礼拝での席上献金、月定献金、感謝献金、などがあり、教会の活動は献金によって運営されています。
一方で、近年カルト宗教が高額の献金を集めることが問題とされています。教会も、自分たちが健全な範囲で活動しているか?、何が聖書に沿うことで、何が『伝統』や『習慣』なのか?、キリストが私達に願っているのは何なのか?定期的に立ち止まり、自らを問い直す作業が必要と思われます。
<父祖の時代:創世記>
創世記4章のカインとアベルのように、収穫の一部(穀物や動物)を、命や食物を与えてくれる神への感謝としてささげることがありました。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの頃には、詳しい宗教規定はありません。
⇒この時代から言えることは、本来的な意味でのささげものは、自発的な、感謝の応答だったということです。
<出エジプトカナン定住:出エジプト記以降>
紀元前十数世紀、エジプトを出て、パレスチナという新しい土地で、共同体として生きるという新しい状況(牧畜から農耕への移行)にあって、はじめて、具体的な戒律、収穫物の十分の一をささげよ、と命じられました。その収穫物によりレビ族という祭司の一族(土地を持たず宗教全般を担う一族)、未亡人、孤児、生活困窮者を養いました。
今日の税金のように、社会福祉的な意味も加わり、共同体として共に生きることを大切にしていました。
⇒1/10だけで、何があっても生活が保証されるとはなんと素晴らしい制度でしょう。
この箇所を参考に、月定献金に収入の1/10を献金するようにと求める伝統がありました(しかも税を引かれる前の・・・)。その伝統自体は教会の発展を助けてきた側面もあり、必ずしも否定する必要はありませんが・・・その教会は聖書が命じる通り信徒の生活保障、老後の面倒をちゃんと見てくれるのでしょうか?
またこの頃から、感謝や、支援だけでなく、罪を犯した者が、動物の犠牲によって自分の罪を贖う(動物が罪を身代わりに背負う)、という、ささげもの(なだめの供え物・贖罪のいけにえ)も行われました。これが後のキリストが私達の罪を背負って身代わりに十字架にかかるという出来事へとつながります。)
⇒この頃は、人間の罪の代価として人間側からの犠牲が求められました。しかし、キリストは、十字架によりご自身で私達のすべての罪の代価を、犠牲を、支払ったのです。
キリスト教において、神に愛されるのに、罪を赦されるのに、天国に入れられるのに、ビタ一文必要ないのです。すでに代価は、完全に、永遠に、支払われたからです。
<ローマ帝国時代:四福音書>
バビロニアに国を滅ぼされ、ギリシャやローマに支配されたとき、問題が起こってきました。支配国から重い税を求められるのです。
自分たちの信じる神以外にささげることは許されるのか?(皇帝は自らを神としていました)ローマに多額の税を払い、ユダヤ宗教社会に献げ生きていけるのか?人々は様々な葛藤に直面しました。
キリストは、ローマへの税金と、ユダヤ宗教社会への献金の関係を尋ねられ、『「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」』(ルカの福音書20章24〜25節)
と答えました。
⇒私達は、社会に対してかなりの税金を払い、その一部は、必要のある場所に使われます。神の関心は、教会だけでなく、社会の隅々にまで及びます。私達の支払う税で、誰かの一日が支えられるとき、それもまた神の心に叶っているのです。
一方で豊かな人々は神殿での献金額を誇り合いました。しかし、キリストは貧しい未亡人が2レプタ(500円ほど)を捧げるのを見て、『この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。』(ルカ21:3)と語ります。『人はうわべを見るが、主は心を見る。』(第一サムエル16:7)のです。
⇒量の多寡ではない、心のあり方が問われている、このキリストの言葉こそが、今日にそのまま適応してもそれほど問題のない、献金に関する箇所だと思われます。
<初代教会の時代:使徒の働き>
初代教会の時代、キリストへの信仰を告白することは、ユダヤ社会やローマ社会からの迫害を意味する場合もあり、仕事を失ったり、家族から追放されることもありました。そこで、人々は自分のものを出し合い、互いに助け合いました。(ただし、あくまで自由意志であり、強制ではありません。)
使徒パウロは宣教師や巡回牧師のように活動しましたが、支援を受けて伝道旅行をする一方で、手に職を持ち(天幕作り)自ら働きながら教会を建てあげました。
⇒使徒パウロは時代や状況に対して、とても柔軟に対応しました。宣教活動に従事する者が支援を受けるのがふさわしいが、負担をかけたくないので自分で働きます、と手紙に書いています。一方で、余裕のある教会は、貧しい教会や宣教に従事する者たちへは、積極的に支援をするよう励まします。
<私達の時代>
私達のささげる献金は、実際には、教会の維持管理費、牧師の生活費、教会活動費、今後への貯蓄、などに用いられます。大切なものだからこそ、神の心に沿って使われているか、祝福を広げることにつながっているか、問いながら歩みたいのです。(牧師が教会の脛をかじるようなことをしていたらちゃんと指摘してください。)
同時に、お金というのは命や労働の代価であり、大切にしてほしいのです。聖書の命令は、神を愛せよ、隣人を自身のように愛せよです。神を愛すること、自分を愛すること、隣人を愛することは、切り離せません。与えられたお金を、自分や大切な人のためにしっかりと使ってください。
個人や家庭にも様々な状況があります。ですから、献金額、奉仕量、礼拝出席、けっしてそれらでご自分を量らないでください。やがては、礼拝も、奉仕も、献金も、ままならない、そんな日が必ずやってきます。けれど、そんな日でも神の愛は変わりません。かつては持っていたものがすべて手からこぼれ落ちていったとき、神に何も差し出せなくなったとき、私達は本当の意味で神の愛を一方的に受け取ることを学ぶのかもしれません。
*カルト宗教の特徴は、搾取・恐怖・束縛、です。一方でカルト宗教の信徒の方々は「喜んで・自発的に」金銭や生活を、団体に捧げています。それが救いや祝福を得る手段だと教え込まれているからです。ささげ物は応答だということをどうか忘れないでください。

