2月16日のメッセージ
サマリヤ人の譬え 小田切武信徒説教者
<ルカの福音書10章30節~37節>
30イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコに下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。31たまたま、祭司がひとり、その道を下ってきたが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。33ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合せ、彼を見てかわいそうに思い、34近寄って傷にオリーブ油と葡萄酒を注いて、包帯をし、自分の家畜に載せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。35次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡していった。「介抱してあげて下さい。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。」36この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。37 彼は言った。「その人はあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
私は日曜学校の教師として30年ほど子供たちと一緒に御言葉を学びました。この間ずっと、「成長」と言う教本を使っていました。「成長」は日曜学校の時間に教師が子供の年齢に合わせて話をすることが出来るように幼稚科から成人科まで区分けされて聖書の御言葉が解説されていました。
「成長」は子供たちが理解しやすいように、出来る限り御言葉を判り易く紐解きながら、福音を伝えることを大切にした解説となっていました。この経験から、私の御言葉の理解のベースは「成長」の影響が大きいです。そのために、私の御言葉の解釈は聖書を深く研究している方が聞かれると、その御言葉はそんな単純なことだけを言っているのではないよと、もっと深い意味を読み取る必要があると言われる事が多々あります。
今日の聖書個所「良きサマリヤ人の譬え」も、私はサマリヤ人が行った良き隣人としての行いの実践を勧めることが主題の御言葉と理解して来ました。しかし、違う解釈があるのだという事をある解説書から学びました。それは、国際基督教大学名誉教授の川島重成先生の「イエスの七つの譬え」という解説本でした。ちなみに、この本は教会の古本屋さんに、どなたかが献品して下さった本です。それを読ませて頂きました。この解釈に出会い、私の御言葉に対しての読み方に少し変化が起きました。今日は、その川島先生の解説をご紹介させて頂き、皆さんの聖書の読み方の参考の一助にさせて頂ければと願いお話しさせていただきます。
イエス様はこの「良きサマリヤ人」の譬えをユダヤの民衆に向かって話されました。30節の言葉をユダヤの民衆はどのように聞いたのでしょうか。聞いた人たちに起こる思いは、まず「この男は誰だろう」という思いではなかったかと思われます。そして、自分たちと同じような一人のユダヤ人を心に思い浮かべたのではないでしょうか。あの道は私も通ったことが有る、いかにも強盗が出そうな危険な道だ。あるいはあそこで強盗に遭ったと言う人の話を聞いたことが有る、そうゆう思いを聴衆の心に呼び起こしたと思われます。このようにイエス様の譬えは生き生きとした現実感覚を聞き手に与え、決して突飛とは言えないリアルな臨場感を持って繰り広げられます。この事によって聞き手は容易にその話の中に入っていく事が出来ると思います。」31節の言葉を聞いた、傷ついた男の立場で聞き始めた聴衆は、この祭司の登場に一瞬もしやと、期待を抱いたと思われます。そして次の瞬間、その祭司がわざわざ「道の向こう側を通って行った」と知って、聞き手はなるほどと納得したのではと思われます。この31節の描写も本当に現実感にあふれています。この道はエルサレム神殿で奉仕を終えてエリコに戻る祭司たちがよく通る道でした。この祭司の冷淡な振る舞いも決して誇張ではなくて、聴衆たちにとっては非常にリアルなものではなかったと思われます。祭司たちはレビ記21章1節にある「民の内の死人のために、実を汚す者があってならない」と言う、律法に縛られていたのではないかと推測したと思います。祭司はこの旅人がすでに死んでいると思ったかもしれません。」あるいはうっかり介抱している間に死んでしまうかもしれない、そうなると祭司たる身を汚すことになる、そのことを恐れたという事は充分に推測されます。いずれにしても祭司たちは様々な律法に縛られて自由に行動の出来ない人たちであるという事をお見通しであった聴衆にはこの祭司の行動にはさもあろうと冷めた心で納得したのではないかと思われます。次にレビ人が登場します。レビ人は下級祭司でした。上級祭司たちの下働きを極めて真面目にやっていた人たちです。経済的にも貧しい人たちだったと言われています。その意味で聴衆には、レビ人は自分たちの仲間であるという期待感があったかもしれません。しかし、彼らも律法に縛られた極めて真面目な誇り高い聖職者であって、やはり期待できない。そんな冷めた気持ちもあったと思われます。そしてその通り、先の祭司と同じ事が起こってしまいました。これで聴衆は次第に絶望に包まれていったと思われます。その時サマリヤ人が現れました。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は近親憎悪にも似た感情を互いに抱きあっていました。ことも有ろうにそのサマリヤ人が瀕死のユダヤ人を助けたのです。ユダヤ人にとっては「サマリヤ人」という固有名詞と「良い人」という感情は本来結びつくはずのないものでした。聴衆はここで傷ついて捨て置かれたユダヤ人と共に、まことに逆説的な事態に直面させられたのです。ここで、傷つけられて道端に捨てられたユダヤ人の旅人に、これまで自らを同一視して話を聞いていた聴衆の立場にもう一度立戻ってみたいと思います。彼らにとって、同胞の祭司やレビ人が見て見ぬ振りをして通り過ぎたのに、ユダヤ人とは仲たがいし、お互いに敵視しあっているサマリヤ人が助けてくれたという事、そのことは全く予期せぬ驚きだったと思います。彼らはそれを素直に喜ぶことが出来たでしょうか。ユダヤ人は聖職者だけでなく、一般民衆に至るまで、血統とその宗教的伝統に大きな誇りを持っていました。サマリヤ人に体を触れさせるというような事、あるいは彼らから世話を受けるというような事を、いさぎよしとする者はいなかったと思われます。従って傷つけられたユダヤ人がサマリヤ人に手厚く介抱されたという話を聞かされて、今まで自分とその人物を重ねて聞いてきた聞き手は、ここで非常に居心地の悪い感情を抱き始めたと思われます。私ならそんなことは拒否すると思ったかもしれません。まさにこのこだわり、居心地の悪さの中で、聞き手はイエスの指し示す神の支配、救いという驚くべき現実に直面させられたのです。ここでユダヤ人として誇り高い、自信に満ちた聞き手は、こんな譬えを語るイエス様につまずいたと思います。しかし、それほどかたくなではない、閉鎖的でない人は。客観的な状況を冷静に見ようとする態度に立ち返ったのではないでしょうか。この瀕死の旅人に、つまり聞き手である彼自身に、このサマリヤ人の予期せぬ振る舞いを拒否する力はないはずだ、と。彼にはサマリヤ人の親切に身を任せる以外にすべはないのだと、と。すなわち、実は自分もこの同じ絶望的な状況の中にいるのではないかという発見的認識に立帰った聞き手は、あのこだわりや居心地の悪さを圧倒する喜びに突如包まれたのではないでしょうか。自分の命が思いがけなくも救われたのだ、と。すると、そのような聞き手は、イエス様がこの譬えで伝えようとしていることが何であるかを瞬時に直感したと思います。「良きサマリヤ人」に託された新しいメッセージや喜びの訪れは、それを受けるに値いしない者に、全く予想もつかない仕方で、様々な言い訳だとか、こだわりを圧倒するかたちで、突如現れてくるものであることを理解できたのではないかと思います。そのように直感した聞き手の中のある人たちは、さらにこの譬えを語るイエス様の中に、そのような「良きサマリヤ人」を発見し、そのことに喜びを持ってただ素直に受容するしかないという思いに至ったと思います。「イエス様こそ私にとってのサマリヤ人だと」これが、いわゆる「良きサマリヤ人」の譬えが最初の聴衆、つまりユダヤの民衆に与えた衝撃の内容とは、こうだったのではないかと想定される一つの読み方です。それは隣人愛の実践の勧めではなく、イエスとともに到来した予期せぬ喜びの告知だったのです。
以上が、川島教授の「良きサマリヤ人」の譬えの解釈の要約です。川島教授はイエス様が語られて2000年後に、この譬えを読んでいる私たちの状況に引き付けて御言葉を解釈するのではなく、イエス様が語られた当時の状況、考え方、制度等を考慮し、可能な限り、イエス様がユダヤの民衆に何を伝えたかったのかを当時のユダヤ人の立場に立って、聞き、理解しようとしているのだという事が強く感じられます。
しかし、この譬えは同時に神の恵みと、神の恵みによって赦された者の新しい生き方の勧めでもあると思います。この譬えには、神の恵みが示されていますが、文脈は、隣人を愛することへの勧めでもあると思われます。さらに言えば、25節〜の自分の正しさを示そうと自己義認している律法の専門家に対して、神様がして下さっているように隣人を愛するとはどういうことか、という教えだと思います。ですので、自分に敵対していると思われるような隣人に向き合う時の私達の姿勢へのチャレンジの勧めでもあると思います。
「イエス様の大きな愛と恵みによって私たちは赦され救われました、しかし、自分に嫌なことをし、敵対していると思われる相手を愛するのは難しいことです。私もいわれのないことを言われたり、ひどいことをされた相手を簡単に許せないと思う事が沢山あります、そんな時は出来る限りの反論をします。しかしそれによって事態が良くなることは、残念ながらほとんど有りませんでした。そんな時、神様は全ての事をご存知である、すべてを神様にゆだねようと自分に言い聞かせ、それができるようにと祈りました。不思議にそうすることで怒る気持ち、恐れ、不安に支配されている心に平安が訪れました。私たちは全ての人を平等に愛して下さり、お一人おひとりと伴に歩んでくださり、すべてをご存知の神、主に守られているのです、怒り、恐れ、不安は神様にゆだねましょう。神を信じ、この方にすべてをお任せすることで平安の中に導いて頂き、心に平安を保って生きて行きたいと願います。
今週もこの事を忘れることなく主の守りと恵みの中を歩む1週間でありたいと願います。

