2月9日のメッセージ

2025年2月9日「讃美の再確認、めぐみの再発見」

IMG_20250209_084801238_AE

<使徒の働き16章>

22 群集もふたりに反対して立ったので、長官たちは、ふたりの着物をはいでむちで打つように命じ、23 何度もむちで打たせてから、ふたりを牢に入れて、看守には厳重に番をするように命じた。24 この命令を受けた看守は、ふたりの奥の牢に入れ、足に足かせを掛けた。25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。26 ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。

 

<聖書における讃美>

礼拝では教会でも、学校でも、幼稚園でも必ず讃美歌を歌います。ゴスペルなども讃美歌ですし(グラミー賞の部門もあります)、歌詞はなくともバッハの名曲「主よ、人の望みよ喜びよ」などは讃美の精神をで作曲されています。(讃美歌は多様で、ロックやカントリー、伝統音楽の讃美歌もあり、歌手として生活する人もいます。)

 

聖書で一番多い命令は何でしょう?隣人を愛せよ?悪や不正を避けよ?それらも大切ですが、最も多いものは、ほめ歌え、讃美せよ、という命令です。

有名な「ハレルヤ」、という言葉も、ハレル(讃美せよ、という命令形)とヤー(ヤハウェ、神)が合わさった言葉です。日本語聖書で「讃美」と訳される言葉は多く、旧約、新約合わせて、20以上あります。

 

聖書の詩篇というのは古代の人々が礼拝、お祭り、巡礼の旅などで歌っていた讃美歌の歌詞です。聖書は、神からの手紙とも言われますので、神から人へ、天から地へ、上から下へ方向性がありますが、詩篇には、人から神へ、地から天へ、下から上へ、の言葉が記されています。讃美というのは、人から神への語りかけ、音楽にのせた祈りなのです。

 

詩篇には、神の恵み深さや偉大さを称える歌、感謝や喜びの歌があり、神に疑問をぶつける歌、懇願する歌、嘆きの歌、呪いを吐き出すような歌、など様々あります。(このように、あなたの心を正直に注ぎだし、祈ってもいいのだよ、という招きなのです。)

 

聖書には、実際に歌を歌う場面が多くでてきます。

モーセ(出エジプト記15章)やダビデ(第二サムエル記22章)は歌いました。

 「1 主が、ダビデのすべての敵の手、特にサウルの手から彼を救い出された日に、ダビデはこの歌のことばを主に歌った。2 彼はこう歌った。「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、3 わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。4 ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、私は、敵から救われる。」

イエス様も、十字架にかかる前の夜、最後の晩餐の席で、讃美を歌いました。(マルコ14:26 おそらく過越まつりの伝統にならい、詩篇113〜118篇や136篇)

モーセは歌を教え(申命記31章22節)、ダビデは歌を作り(詩篇)、人々はそれらの歌うことで、信仰のあり方など大切なことを確認し、信仰を確かなものとしていきました。(電子機器や書物がない時代の、貴重な教育教材だったのです。)

黙示録では天での大合唱が描かれ(黙示録19:6&16、11:15など)、その場面はヘンデル作曲の「メサイア」にも取り入れられています。

 

そして、今日の場面では、使徒パウロが讃美歌を歌います。

<牢獄の中での讃美>

宣教の旅をしていたパウロたちは神に導かれ、アジア大陸から、ヨーロッパ大陸へと渡りました。ピリピという町で、キリストを伝え、小さな教会が生まれます。ところが、トラブルから現地の人々に訴えられ、鞭打たれ、足枷に繋がれ、牢に閉じ込められました。

せっかくの犠牲を払って海をわたったのに捕まり、誕生した教会もどうなるかわからない、鞭打ちの苦痛が今も痛み、明日の自分たちの命すら分からない・・・

そんな状況でパウロたちはどうしたかと言うと・・・ けっして、やけになっていたのでも、諦めていたのでもない。「神に祈りつつ賛美の歌を歌」(25節)っていたのです。

 

どんな歌かは(詩篇の歌か、初代教会で歌われていた歌かは、)分かりません。歌の種類も、神をたたえる歌かもしれませんし、嘆きや懇願の歌かもしれません。

 

けれど、一つだけ言えることは、下を向いても仕方ない状況の中で、パウロは上を向いていた。天を見上げ、神に心を向けていた、ということです。

 

だからこそ、地震が起き、扉が開いた際にも、これ幸いと逃げ出すのではなくて、このことを通して神は何をしようというのか見極めようと、その場に留まりました。
そして、看守が自分で命を絶とうとするのを止め、彼と彼の家族を信仰へと導きます。

 

<私達の心を引き上げる讃美>

讃美というのは、私達が、弱りきり、疲れ果て、乾ききった心であるときも、不思議と目を、耳を、心を、天へと向けてくれる力があります。

あまりの多忙さに祈りも聖書も忘れたかのような一週間であっても、心には悩みや恐れや怒りが渦巻いていても、気持ちが伴わず参加した礼拝の讃美で、奏楽や歌声に心が震わされ、歌詞が天からの語りかけのように心に響き、歌詞に乗せて自分の心を神に注ぎ出すことができ、もう一度新しく歩む出すことができる、そんな体験が何度もありました。

 

ですから、宗教改革者マルチン・ルターは、たくさんの讃美歌をドイツ語で、親しみやすいメロディーで作曲し、礼拝で皆で歌いました。(当時教会では、聖職者が人々には意味の分からないラテン語で典礼歌を歌っていたのです。)それを覚え歌うことで、教会だけでなく、家庭や、畑でも、いつでも神を見上げられるようにしたのです。

 

<慈しみ深き方を見上げる>

最後に、結婚式などでも歌われる有名な讃美歌「いつくしみ深き」について紹介します。作詞をしたアイルランド人のジョセフ・スクライベンは、幸せな結婚を控えた前日、婚約者が馬から川に落ち亡くなります。彼は失意のどん底の中で、友として寄り添ってくださるイエスに慰められ、再び悲しみから立ち上がります。

カナダのポートホープに移住し、教師をしながら、貧しい人への奉仕活動を熱心におこない、「ポートホープの善きサマリヤ人」と呼ばれます。そして、もう一度素敵な女性と出会い婚約をしますが、また相手が結婚前に亡くなってしまう。
彼はもうだめに違いない、家族も周囲も心配しますが、母に安心するようにと手紙を記します。その手紙に記された詩が、What a firend we have in Jesus というこの歌のタイトルの内容でした。私は友であるイエスに支えられています。祈りによって全てを神の前に持っていき、慰めを得ています、という内容です。やがてこの詩に音楽がつけられ、世界中に広まりました。

讃美を通して、天に目を、顔を、心を向け、希望を得ます。讃美を通して、私達は嵐の中でも隣りにいて支えてくださるキリストという存在に気付かされ、新しく歩みだすことが出来ます。牢獄のような中にあっても、神に歌いつつ歩む私達でありたいと願います。

 

<今週の黙想> 1日1度、好きな讃美歌を歌い、神に心を向ける時間を取ってみてください。また、神を讃える祈りをしてみてください。

 

Top