2月2日のメッセージ

2025年2月2日「祈りの再確認、めぐみの再発見②」

 

<マルコの福音書10章>

 13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

 17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」・・・21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

 25「金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」

26 弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」27 イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

 

<話す祈り>

前回は、祈りが神様との会話というお話をしました。神は、善い方なので、私達は願いだけにとどまらず、不安も、不満も、疑問も、泣き言も、怒りも、神の前に差し出してよいのです。そして、お祈りの最後の「イエスの御名で」、というのは、どんなに私達に愚かさや過ちがあったとしても、イエスのゆえに(その十字架の赦しのゆえに)私達は、引け目なく、安心して神の前にでられるのです。(朝晩や食事の際に、「主の祈り」を祈ることから始めても良いかもしれません。)

 

<聞く祈り>

祈りが会話であるならば、話すだけでなく、相手から聞くことが欠かせません。

今日の場面では、幼子、若い裕福な役人、そして弟子たちが、イエスに神に願い求めています。(祝福、永遠の命、神の国など言い換えられていますが同じと理解して大丈夫です)けれど、イエスのそれぞれへの応答が違うのです。

 

一般に、願い求める祈りの答えには、4つあると言われます。Yes(そうしましょう)、No(そうはしないよ)、Still(待ちなさい)、another(別の方法で)。イエスは、こども達に対しては願われた通りに祝福しました。金持ち青年や、弟子たちには、その通りには応えませんでした。何が違うのでしょう?

私達は、良い出来事が起きたり祈りが叶ったりすれば、神に祝福されていると考え、悪い出来事が起きたり・祈りが叶わなかったりすれば、神の罰や呪いであり、私達の落ち度があるのかな、と考えがちです。けれど金持ちは社会的にも人格的にも立派でした。弟子たちは献身的でした。一方、こどもはまだ何もしていません。それなのにこどもの願いが叶えられたのです。

 

ヘブライ語で出来事は、「ダバール」と言います。そして、言葉も「ダバール」です。古代の人々は、良いことも、悪いことも、出来事を神からの語りかけと考えました。神は良いことを通しても、難しい出来事を通しても、私達に大切なことを語りかけている、そう人々は理解し、耳と、目と、心を澄ましました。だからこそ、出来事の意味を正しく見出すためにも、神の言葉を、聖書を大切にしたいのです。

<言葉を通して応える神>
イエスは、金持ちや、弟子たちの求めに、応じなかっただけでなく、それぞれに、別々のことを語りかけました。どうしても気付いてほしいことがあったのです。

祈り、求め、応えられず、諦めたり、そのままにしたりしていませんか?今日の箇所を読むと、祈りが応えられなかった、求めた通りにはならなかった、そのことにも大きな意味があるのです。

イエスはそれを言葉を通して伝えました。祈るだけでなく、どうか聖書を開いてみてください。神は、聖書、という言葉を通して、私達に語りかけるのです。

ローマの10章7節には、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」とあります。カトリックで批評家の若松英輔さんは「祈るとは、願いを鎮め、彼方からの声に耳をかたむけること」と表現していました。

 

あまり心に響かないこともあるでしょう。疑問や悩みの応えがすぐに示されないかもしれない。けれど、何かは感じ取れる。ある時には、読んだり、人から聞いたり、礼拝で語られたりする聖書の言葉が、不思議と心や頭に迫り、響くことがあるかもしれません。20世紀最大の神学者カール・バルトは、それを「神の言葉が受肉する」と表現しました。

一日少しでも聖書を開き、他の誰でもない、あなたへの言葉として、神のあなたへの語りかけとして、聞いてみてください。その際に、大切にしてほしいことがあります。
<慈しみをもって応える神>

こどもは(今では考えられないことですが)当時は、功績もない、知識もない、価値のない存在でした。ですから、弟子たちはこどもがイエスに近寄るのを止め、叱ったのです。けれど、イエスは「神の国はこのような者たちのものです。」とこどもを抱き上げ、祝福しました。功績も、悟りも、知識もない者が、ただ一方的な慈しみで尊ばれ、愛され、祝福される、これが私達に語りかける神の心です。

一方イエスは、金持ち青年を拒んだようにも見えます。財産を分け与えよと、言い、金持ちは悲しみながら去っていきました。けれど、イエスは彼を拒んだのではないのです。彼に語りかける前に、「慈しんで」、とある。難しい出来事が起きた時、願ったようにならない時、神は私達を拒んででも、嫌ってでもないのです。神はいつも慈しみをもって私達に向き合っている、そのことを忘れないでください。

 

<深く見通し最善を与えようとする神>

イエスは青年や弟子たちに彼らが願ったようには応えませんでしたが、「彼(青年)を見つめ」(21節)「彼ら(弟子たち)をじっと見て」(27節)、応えました。神は、私達の内側を見て、私達それぞれの思いや、歩んできた道、私達の本当の必要を分かって応えてくれる方です。

 

金持ち青年は、自分の財産や地位、宗教的立派さを通して、神の国に入ろうとしました。(当時は金持ちこそが、神に祝福された人で、一番に神の国に入るのだと考えられていたのです。)弟子たちは、自分たちの献身的な姿勢、熱心さを通して、神の国に入ろうとしました。

それぞれが立派ですが(金持ち青年は当時とすれば、完全無欠です)、彼らに欠けていたことがありました。それは、恵みです。自分の富や地位や功績、自分の献身を神に差し出そうとするのでなく、何も持たないこどもを受け入れたその神の恵みを受け取るのです。その妨げになるからこそ、富を分け与えよと、言われたのです。(富の分配という善行で、神に愛されるわけではありません。)イエスは気付いてほしかったのです。

 

金持ちは悲しみながら去り、弟子たちは戸惑いました。(その後ゲッセマネの園では、イエスを見捨てて逃げてしまいました。)
でもそれでいいのです。金持ちの戸惑い、弟子たちの失敗、その先でこそ、神の恵みに気付くことができるのです。弟子たちはゲッセマネでの失敗があったからこそ、ほんとうの意味で弟子になることが出来たのです。

 

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」マタイの福音書7章7〜8節

この言葉は原語では、求め続けなさい、探し続けなさい、門をたたき続けなさい、という継続の意味が込められています。すぐに分からなくても、思い通りでなくても、どうか祈り続け、問い続け、聞き続けてください。私達は、祈り歩む旅路の中で、恵み深い神と出会うのです。

 

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