1月26日のメッセージ

2025年1月26日「祈りの再確認、めぐみの再発見①」

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<マタイの福音書6章9節>

だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。

<お祈りの再発見>
キリスト教幼稚園では、朝の会で先生がその日一日のために祈り、お弁当の前には食前のお祈りをします。帰りの会で、お休みしたお友達のために、園児がお祈りすることもありました。園児たちの姿を見ていると、祈りというのは私達にとって身近であって良いのだと感じます。

今日はお祈りについて再確認し、大切なことを再発見をしていきたいと思います。

 

<祈りの始め方>

幼稚園ではお祈りは「神様とお話すること」と伝えていました。独り言ではないため、会話がそうであるように、相手の名を呼んで、神様に呼びかけて、始まります。

イエス様はいつも「父よ」(ルカ22:42・23:34)と祈っていました。私達も、「神様、天の父なる神様、恵みの神様」、など、自分が好きなように、呼びかけてもよいのです。ただ忘れないでいただきたいのは、その方が、恵みと憐れみに満ちた善い神様だということです。

ファミリータイムでお話したように、私達一人ひとりの名を呼び、私達のために命をかけ、迷えばどこまでも追いかけてくださる方、だということです。そんな優しい神様だからこそ、私達はお祈りするのです。

 

人前で代表して声に出して祈る場合もありますし、一人で声に出さず心の中で静かに祈る場合(第1サムエル1:13)もあります。でも、人に聞かせるためでも、自分で内省するためでもなく、善い神様に向けて呼びかけているのです。

 

<何を祈るの?>

以前の私は、お祈りと聞くと、家内安全・学業成就・商売繁盛といった初詣でのお願い、もしくは、お礼参りでの感謝とイメージしていました。けれど、聖書の神様への祈りに決まりはありません、話したいことは何を話してもよいのです。
・自分の願いを求める祈りがあります。

・感謝を表す祈りがあります。

・隣人のため、社会のため、平和のための、祈りがあります。

ここまでなら、分かります。けれど聖書を開くと・・・

・悲しみや恐れ、葛藤を注ぎだす涙の祈りがあります。(第一サムエル1章)

・自分や罪や醜さを告白する祈りがあります。(詩篇51篇)
・神に疑問を呈したり、問い詰めたりする祈りがあります。 (詩篇22篇)

・神に計画の変更を求める祈りがあります。(創世記18章:アブラハム、ルカ22章:ゲッセマネのイエス)

・恨みや呪いを吐き出す祈りがあります。(詩篇35、69、109篇など)

 

祈りにルールや決まりはないのです。こう祈ったら、ふさわしくない、喜ばれない、聞いてくれない、と私達は考えます。けれど、アブラハムやイエス様は神に計画の変更を求め、ダビデは悲しみを吐露したり、私を大切にしてくれないと文句を言ったり、時には「罰が当たりますように」とさへ祈りました。

私達の、自分の不満、恐れ、悲しみ、怒り、自分勝手な願い、それさへも神に向けてよいのです。ちゃんと受け止め、その思いを取り扱ってくれるからです。

神は祈りの言葉ではなく、私達の顔を、心を、存在を求めているのです。

<一方的に願うだけでなく>

祈りが神様との会話であるなら、話すことだけでなく、聞くこともまた大切です。

私達は、ただ一方的に話すだけでなく、沈黙の中で静まり、聖書の言葉を開き、神様からの語りかけもまた聞きたいのです。カトリックで批評家の若松英輔さんは「祈るとは、願いを鎮め、彼方からの声に耳をかたむけること、無音の言葉を聞くこと」とも表現していました。

 

<祈りにならないうめきさへも>

心身の苦しみの中で、思いが祈りとして結ばれない、顔や心を天に向ける力さえない、そんな日もあるかと思います。

けれど、聖書には私達の祈りにならないうめき、苦しみの声すら、神は私達の祈りにならないうめきや叫びすらちゃんと聞いていてくださっている。「夕、朝、真昼、私は嘆き、うめく。すると、主は私の声を聞いてくださる。」詩篇55篇17節

「「祈り」とは、決まった言葉を唱えることでも、自分の思いを語ることでもありません。旧約聖書には、神は人間のうめきを聞き逃さないという言葉が一度ならず出てきますが、私が考えているのは、うめきは神の耳には祈りとして届くということなのです。それは私たちの心よりも一段深いところから出てきている。それを神は見逃さない(若松英輔著『すべてには時がある』pp.67-68)
<祈りの終わり方>

幼稚園では、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。と終わりました。(アーメンは、同意します、その通りです、という意味なので、一人で祈る場合にはちょっと変ですし、代表者が言うと同意の強要にも聞こえますが・・・)

 

実は、「イエス様のお名前によって」というところは聖書にはありません。むしろ古代の祈りは、主の祈りが「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり。」のように神をたたえて終わります。

ではなぜ「主の御名で」と付け加えるかと言うと、安心して祈るためです。

人は引け目があると心から相手の前にでられません。極端に言えば、聖なる愛に満ちた神の前に堂々と立てる人はいないのです。

けれど、どれだけ私達が罪深く、愚かで、汚れていても、イエスは私達のために十字架で死んでくれた、罪を身代わりに背負ってくれた、だから誰でも、イエスのゆえに、神の前に立てるんだ、祈っていんだ、という信仰の現れです。

 「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。」(エペソ3章12節)

イエスのゆえに、私達は、どれだけ正しく歩めない日々の中にあっても、恐れず、引け目を感じず、安心して神に祈ることができるのです。無理に言わなくても、ちゃんと神様は聞いてくれますが、こんな私の祈りなど神は聞いてくださらないのでは、という私達の思いを吹き飛ばすのです。

 

<今週の応答>

一日に1分でもよいのです。

「めぐみの神様」と呼びかけ・・

朝には願いを:◯◯◯ますように。

夕には感謝を:◯◯◯を感謝します。

最後に、「イエス様のお名前で祈ります。」と祈ってみてください。

すでに祈りの習慣がある人は、祈りの中で話すだけでなく、聞く(聖書を読む、静まる)時間を取ってみてください。

 

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