1月19日のメッセージ
2025年1月19日「たましいの糧24」
<テサロニケ人への手紙第一5章14〜18節>
14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。
16 いつも喜んでいなさい。
17 絶えず祈りなさい。
18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
<信仰者の生き方>
今日の箇所を読む際、紹介したい言葉があります。一説には宗教改革者マルチン・ルターによるとされる『たとえ明日世界が終わるとしても、私は今日リンゴの木を植える』という言葉です。今日、私達がどう生きるか、どうあるか、の大切さを教えてくれます。
漫画『ちびまる子ちゃん』では、主人公のまるちゃんは、ノストラダムスの大予言(20世紀の最後に、恐怖の大王がやってきて世界は滅びるというもの。昭和の時代に大流行しました。)を聞くと、それじゃあ1999年まで好き放題しよう、とテスト勉強をせず漫画を読みふけり、結局は未来より明日のテスト問題を予言してくれ、と願うのでした。(別の漫画では、テスト結果を見たママが恐怖の大王より怖かったり、テストをママに見せる前に世界が終わってほしいと願ったり・・・)
聖書には(恐怖の大王でなく)、キリストが再び来て恐怖や悲しみに満ちた世界を、私達を救ってくださる、という希望が語られます。
ところがそれを聞いた一部の人は、神が罪を赦し、天国に迎えてくれるから、好き勝手生きよう・働くのをやめよう(4章1〜11節)、とした人もいました。一方で、神が自分の不十分な姿を見て、見捨てるかもしれないから、ちゃんと救ってもらえるように、世間から離れ、ひたすら宗教的に生きよう、という人もいたそうです。
今日でも、どうぜ神が世界も私達も救うのだから、戦争、差別、貧困、環境破壊などは些細なことで、宗教的なことだけに集中すれば良い、という立場もあります。(眼の前の大切なことから目を背けているという意味では、まるこちゃんに似ていますね。)
確かに、このテサロニケ手紙には、キリストが復活したように、私達にも死の先の復活があること、キリストが私達のために再び来てくださること、といった将来の希望が繰り返し記されています。けれど、だから今がどうでも良いわけではない、むしろ私達がどう生きるか、神がどう生きてほしいと願っているかが、記されているのです。(宗教的であれ、とは書かれていないことも大切です。)
<恵みのキリストに目を向ける>
『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。』これは、多くの人に大切にされている聖書の言葉です。同時に、けっして簡単なことではなく、「いつも落ち込んでいます、絶えず諦めています、すべての事について不満を言ってしまいます」という冗談もあります。
確かに、私達の日常には、喜びよりも悲しみや恐れが、祈りよりも不満や心配が口から出て、期待するよりも諦め、感謝どころが『どうしてこんな事が・・・』と嘆くような出来事が起こります。聖書を読み、こうありたい、こう歩みたい、そう願いつつも、厳しい現実があり、忙しさや心配の中で、次第に心がしおれてきます。
実はキリストの一番弟子であるペテロでさえもそうでした。「あなたのためならば命まで捨てる!」、そう豪語しつつも、キリストなど知らない、自分とキリストとは関係などない、と3度(3は完全数ですので完全に)否定してしまうのです。(ヨハネ18章)
なぜパウロはこのような、ペテロでさえできなかったことを私達に語りかけたのでしょうか?
じつはこの言葉、パウロが記したギリシャ語で読む時に、また違った響きをもって聞こえてくるのです。その鍵は『恵み』(ギリシャ語で χάρις カリス)です。
Πάντοτε χαίρετε, ἀδιαλείπτως προσεύχεσθε, Ἐν παντὶ εὐχαριστεῖτε· |
16節の『喜び』とは、ギリシャ語でカーラー(喜ぶは、カイロ―)、つまり『恵み』という言葉と同じ語源なのです。また18節の『感謝』とは、ギリシャ語でユーカリスト、良い恵み、という意味です。 この箇所をギリシャ語の響きで聞いた人には、『恵み』という言葉が、繰り返し想起されるのです。
喜びも、感謝も、無理やりするものでも、わたし達の側から生まれるものでもないのです。喜びも、感謝も、神が与える恵みから、神の側から生まれてくるものなのです。
イエスは、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(ヨハネ13:38)と、ペテロの失敗を事前に予告しました。『私は君の失敗などお見通しだ!』『どうせ君などだめだ!』そう言いたいのでしょうか?違います。すぐにこう続きます。
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(14:1〜3)
裏切りの予告がされた後、それでも見捨てない、見放さない、裏切りすらも良いことに用いる、そう言われるのです。そして、十字架にかかり、復活し、弟子たちのもとにやってくる、自分を裏切ったペテロを受け入れるのです。
裏切りすら、罪の赦しのために、裏切り者に天の門を開くために用いてしまう。死すら乗り越えてよみがえり、裏切り者を招くために再びやってくる。
宗教改革者マルチン・ルターは言いました。(これは確かなようです。)『キリストが昨日十字架にかかり、今日復活し、明日来られるかのように、生活しなさい。』
私達の罪のために十字架にかかってくださる恵み深いキリスト
私達が絶望しないよう、死や困難の先のいのちを示してくださった恵み深いキリスト
私達を決して放っておかず日々共にいて、やがて完全に救ってくださる恵み深いキリスト
私達が待つのはこのようなキリストです。
わたし達の毎日には、今までも、そしてこれからも、様々な出来事が起こります。悲しみが、諦めが、不満が、失望が、自己嫌悪が、私達の心を満たす日もあるでしょう。
それでも教会では礼拝の最後に派遣の言葉が語られます。
<派遣の言葉>神がいつも共におられます。平和のうちに世界へと出ていきなさい。勇気をもちなさい。いつも善を行うよう努めなさい。悪をもって悪に報いてはなりません。
気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを支え、苦しんでいる者を助けなさい。全ての人を敬いなさい。主を愛し、主に仕え、聖霊の力によって喜びなさい。
なぜなら、恵みに満ちたキリストが、昨日も、今日も、そして明日も、あなたに関わってくださるからです。この恵み深い方に信頼して、私達は毎日を歩み出すのです。
<テサロニケ人への手紙第一の概要>
著者:使徒パウロ
年代:紀元50年頃、コリント滞在中に執筆
執筆背景:
パウロは、第二次宣教旅行において、アジアから海を超え、マケドニヤ(ヨーロッパ)へと渡り、ピリピ、テサロニケ、アテネの町で宣教した。テサロニケではユダヤ人の妬みをかい、暴動に巻き込まれ、次の街へと避難したが、この街には教会が誕生した。(「使徒の働き」17章)
仲間のテモテから教会の様子を聞き、教会を励まそうと、彼らの誤解(キリストが再臨するなら働かなくていい、好き勝手生きていい、キリストが再臨する時見捨てる人もいる、など)を解決しようと、この手紙を記した。
特色:
キリストが再び来てくれること(再臨)に希望を持ち、それにふさわしく日々を誠実に生きることを強調しているている。
関連聖書箇所:
使徒の働き17章1〜5節
「1彼らはアムピポリスとアポロニヤを通って、テサロニケへ行った。そこには、ユダヤ人の会堂があった。2 パウロはいつもしているように、会堂に入って行って、三つの安息日にわたり、聖書に基づいて彼らと論じた。3そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明して、「私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです」と言った。4彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。またほかに、神を敬うギリシヤ人が大ぜいおり、貴婦人たちも少なくなかった。5ところが、ねたみにかられたユダヤ人は、町のならず者をかり集め、暴動を起こして町を騒がせ、またヤソンの家を襲い、ふたりを人々の前に引き出そうとして捜した。」
テサロニケ人への手紙第一3章12〜13節
「また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。」