11月17日のメッセージ
2024年11月17日「たましいの糧23」
<コロサイ人への手紙3章9〜11節>
9 あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、 10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。 11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
<ファミリータイム:マタイの福音書22章>
9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』 10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。 12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
これ祝宴、王子の結婚披露宴を天国に例えた話です。招かれていたはずの人々(ユダヤ人)は招待を拒んだため、王様は、しもべを遣わし、手当たり次第目についた人達、地位や立場もない、お祝いの品もない、ふさわしい身なりもない、本来は招かれないはずの人々(罪人や異邦人)を、祝宴(天国)へと招くのです。そんな人招いていいの?
いいのです。当時王様の祝宴では参加者が身につける礼服など全ては、主催者が用意しました。招かれた人がすべきことはたった一つ、王様が用意してくれた礼服に袖を通すことだけ、あとは、ただただ祝宴を楽しみ祝うのです。
「わたしは主によって大いに楽しみ、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、正義の外套をまとわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾ってくださるからだ。」(イザヤ61:10)
私達は、自分の地位や、贈り物や、身なりで、祝宴(天国)に入るのではないのです。一方的に招かれ、一方的に救いの衣を着せられ、神の恵みを喜び楽しむのです。
<新しい人を着る>
今日の聖書箇所には、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る、という言葉が出てきます。私達はクローゼットを開けば、素材やデザイン、色合いの異なる服があり、気分やTPOに合わせて、変えることが出来ます。
ある牧師であり、住職と神主の資格を持つ比較宗教の専門家は、日本人にとっての宗教とは装いであり、季節や場面によって着替え使い分けるもの、と表現していました。
ところが、聖書の記された、古代において、服(生地)というのは大変な貴重品でした(十字架の際にもイエス様の服を兵士が分け合いました)。服は、この階層の人は素材や形はこれ、と大体決まっていました。(また、民族などの区別もあり)。特別に豊かな人でない限り、いつも同じか、同じようなわずかな服を着続けるのが当たり前であり、脱ぎ捨てるなんて、もったいなくてありえないことでした。
ですから古い服(人)を脱ぎ捨てて、新しい服(人)を着るというのは、生き方や立場の大きな変化を意味します。著者の使徒パウロは、信仰を、そのような大きな変化に例えたのです。
<新しい人を着て救われる>
パウロは、『あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。』(9〜10節)と、神の救いを、新しい人(服)を着ることで説明します。
私は最初、信仰者を汚れない生活をし、清い心を持った、立派な人だとイメージしていました。私もいつか、そんなふうになりたいな、そうなったら自分を信仰者と呼び、洗礼を受けるのかな?そう考えていました。けれど違ったのです。
もちろん中身が変えられていくことこそが大切です。けれど、別人のようになれたら救われる、とは聖書にいっさい記されてはいないのです。順序が逆なのです。
ファミリータイムの箇所ではこうあります。「しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。」
王子の婚礼の祝宴として表される天国に、だれでも、良い人でも悪い人でも、招かれるのです。そして、礼服は、祝宴にふさわしい服は与えられるのです。祝宴に入る条件は唯一つ、貧しい身なりの上からでもよいのです、用意された礼服を纏うことでした。
ルカ15章の放蕩息子のたとえ話。父は、ボロボロに帰ってきた息子にまず服を着せました。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。』ルカ15:22
服を着せることで、あなたは、私の息子だと、私にとってかけがえのない存在だという示したのです。
招かれた悪い人も、貧しい人も、放蕩息子も、中身はボロボロで、汚れていました。それでも、まず衣を着せられる、そのまま受け入れられ、祝宴が始まる。これが神の順序です。この衣、新しい人とは、「新しい人は、造り主のかたちに似せられて」(コロサイ3:10)、「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ11:13)とあるように、キリスト自身でもあり、キリストの正しさでもあります。私達がすべきことは、地位や立場を得ることでも、身なりを整えることでも、お祝いの品を用意することでもありません。ただ、差し出された救いの衣を受けることなのです。救いは私達ではなく、神の側の業なのです。
<新しい人を着て変えられる>
服を脱ぎ捨て、違う種類の服を着ることは、それまでとは違う、新しい生活を意味しました。神に愛された、天国が約束された。それで終わりではないのです。
「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」(10節)
別の手紙でも同じように「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4章22〜24節)
使徒パウロは、新しい人とはキリストであり、造り主キリストのかたちに、キリストの似姿に、キリストに似たあなたに、変えられていきなさいというのです。
「名実ともに」という言葉がありますが、まず義の衣が着せられ、神の子、という名が与えられる、そして、次第にその衣に、その名に、ふさわしい人に変えられていく。(繰り返しになりますが、放蕩息子の父は、立派になったから、一番いい服を着せたのではない。ボロボロのまま斎場の服を着せ、これから変えられていきなさい、というのです。)
神のかたちに、キリストの似姿に、変えられていく、これは信仰者だけの目標ではないのです。「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:27)私達は、男女である以前に、何人、何民族である以前に、神のかたちとして、創造されたのです。(その尊さ故に傷つけることを禁じられました。「人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。」(創世記9:6))
もともと立派な人、隣の信仰者より人格的に優れた人は、いくらでもいるでしょう。そのような人は信仰は必要ないのか?いえ、すべての人に示されているのはキリストです。私達は、人と自分とではなく、いつも、キリストと自分とを比べたいのです。そして、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、」(ヘブル1:3)とあるキリストの姿を絶えず目指し、その歩みに倣っていきたいのです。
古代において、映像や写真などのメディアはありません。ほとんどの人は王様を見たことはない。ですから、王は自分の大きな像を作り、それぞれの都市におきました。人々はその像を見て、王は立派な存在なのだ、ここは王が治める、王の意思が反映される領域なのだと知りました。「かたち」にはこの像を表すことばが、ここでは用いられています。
信仰者とは、ある意味で神の像、愛に満ちた良い王であるキリストのご性質を表すために、それぞれの場に置かれているのです。みなさんはただ、天国までの待合所として、毎日を過ごしているのではない。
この世界で、諦めや失望がある中で、神を見たことがない人達に、いえ、それでも神がいるのだと、ここもまた神の良いご意思が実現しうるのだと、希望はあるのだと身を持って、示すのです。
あなたは新しい人を着たのです、神のかたちなのです、義の衣を、イエス・キリストを着た者なのです。「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。・・これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」(コロサイ3章12・14節)

