6月2日のメッセージ

おざく台教会2024年6月2日「たましいの糧④」

 

<聖書:ローマ人への手紙8章>

15 喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに泣きなさい。

 

<ファミリータイム:礼拝って何?>

「礼拝」とは何でしょうか?祈ったり、聖書を読んだり、賛美歌を歌ったり、聖書の話に耳を傾けたりします。献金の時間もあります。教会で行う宗教行為の総称、と言えるかもしれません。

 

1〜2節「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物としてささげなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

今日の箇所では、自分自身を神に捧げることが、礼拝だと言うのです。神の心にかなうことはなにか、何が良いことかを、考えながら生きることこそが、礼拝だと言うのです。人を愛すること、優しい言葉をかけること、誰かのために祈り、誰かのそばに寄り添うこと、それら私達の毎日が、私達の一挙手一投足が、私達の発する一言一句が、神への礼拝なのです。

日曜日に家族が不調でもその人を放っておいて宗教施設に宗教行為に出向くことよりも、眼の前の必要を抱えた人に寄り添うことこそが、神の望みであり、真の礼拝行為である場合も、ありうるのです。

1週間は何分かご存知ですか? 60分✕24時間✕7日間で、10080分間です。教会の礼拝は、大体50分いろいろ含めて80分。この80分だけでなく、残りの10000分もまた、礼拝でもあるのです。そして、この80分が、残りの10000分を歩むうえで、大切な時間大切なのです。

 

<ためにでなく、ともに>

私が、幼稚園の園長だった時代にも、教会の牧師としても、大切にしている言葉が、今日の15節「喜ぶ者とともに喜び、泣くものとともに泣きなさい。」という言葉です。とくにこの「ともに」という部分が好きなのです。

私達は誰かの他「ために」一生懸命関わります。泣く人がいたら、その人の「ために」何かできることがあればと考える、それは素晴らしいのです。

 

けれど、保育の世界にいたときに、「ためにでなくともに」という言葉を学びました。キリスト教主義の障碍者児童施設「止揚学園」を設立した福井達雨さんの大切にしている理念です。

 

『同情の世界は、この子どもたちのためにの世界であり、愛の世界は、この子どもたちと共にの世界である。「ために」と「共に」の歩み方は、大きな違いがある。「ために」の歩みは、汗を流さなくてもよい。汚れなくても、疲れなくても、責任をもたなくても、重さを感じなくてもよい。上から、子どもたちのために、何かをしてやればよいのである。「共に」の歩みは、汗が流れる。汚れ、重さを感じて、足がふらついてしまう、疲れ果て、責任が重く、自分の方にのしかかってきてしまう。』(『やさしい心をもっていますか?』発行:株式会社サンガ 2008年) 

 

もちろん「ために」は、大切です。神様も私達の「ために」たくさんのことをしてくれたと書いてある。でも、限界のある私達人間が「ために」と使うと(使いすぎると)、どこかおかしくなってしまうことを経験しています。「ために」とは一見格好が良いですが、上からの、一方通行の、条件付きの、支援者中心の、関わりとなりがちです。こどもが、相手が、関わる側の枠に収まらなければ、おもったような反応や成果が見られなければ、せっかくしてあげたのにと腹を立てたり、その子どもは関わるのにふさわしくないと排除されてしまう、そんな恐れもあるのです。

 

しかし、「ともに」とは、隣からの、双方向の、無条件の、相手中心の関わりであり、その子の応答いかんによらず、その人の反応や状態がどうあろうが、私はあなたを決して離れないという決心でもあります。自分が相手を変えるのでなく、変わろうとする相手と歩調を合わせて一緒に歩む、私の願う方向に進んでくれなくてもそちらの方向に自分も行く、いえ、変わろうとすらしなくても一緒にい続ける、それが『ともに』の関わりです。(少し極端や、大袈裟に聞こえるかもしれませんが、真剣に保育・教育、福祉、医療、に向き合うならば、このような側面が確かにあるのです。)

 

これは、まさにキリストの歩みでした。神は、天から、高いところから、私達のために、教え諭すのでもない、鯉に餌をやるように恵みを放り投げてやるのでもない・・・・私達と共にあるために、神がへりくだり人となったのです。問題を抱えた人、見捨てられた人、嫌われた人と共に食卓を囲みました。大きな変化をした人もいれば、感謝もせず、無礼だったり、無関心だったり、甘えるだけだったりと、神の恵みを無碍(むげ)にするひとも多かったでしょう。けれど、どれだけ愚かでも、無礼でも、裏切っても、イエスは天に帰ったりはしなかった。見捨てず、見放さず、ともにあり続け、手を伸ばし続ける、そのような関わり方です。

神は愛をもって私達の「ために」様々なことをしてくださった。けれど、究極的に言えば、神の愛は「ともに」の愛です。どれだけ私達の「ために」なされたことを軽んじようが、神は私達と「ともに」いることを諦めない、いつも「ともに」いて、手を差し伸べてくださる。

 

自分自身も、大変なとき、もがいているとき、支えとなったのは、「ともに」悲しみ、「ともに」悔しがり、場所は離れていてもいつも祈り「ともに」いてくれる人の存在でした。その人は、もちろん私の「ために」、私の仕事の「ために」、たくさん骨を折ってくれた、けれど、同時に、時間をさき、何度でも話を聞き、心を合わせて「ともに」祈ってくれた。「あなたの悲しみは私の悲しみです」と言ってくれた(そのメールのスクリーンショットは今も保存してあります))、その人を通して、神様の愛を感じました。

 

おざく台教会をみていると、「ためにでなく、ともに」いう福井達雨さんの言葉が、そして今日の聖書の言葉がいつも浮かびまう。必要を抱えた人やまだイエス様を知らない方々の「ために」と上から見下して支援や伝道をするのでもなく、神様の「ために」これだけのことをしたのだと自らの行為や信仰を誇る姿ではなく、むしろ教会籍や受洗の有無に関わらず「ともに」生き、「ともに」泣いて、隣の人の痛みを「ともに」痛んで、「ともに」神様を見上げ、罪人と「ともに」歩んでくださるイエス様にすがって生きる、それがおざく台の良さであると感じています。

 

みなさんは、きっとだれかの「ために」新しい一週間を歩みだすと思います。それだけでも大変です。さらに「ともに」歩もうとすれば、みなさん自身が疲れ果て倒れてしまう。

だからこそ、いつもあなたと「ともに」いてくださる方に、目を、耳を、心を向けていただきたいのです。

 「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイの福音書28章20節)

「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(ヘブル人への手紙13章5節)

このように私達に誓う神が、わたしたちの悲しみをともに悲しみ、わたしたちのために尽くしてくださる神が、今日も明日も、私達とともにいるのです。

 

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