3月3日のメッセージ
おざく台キリスト教会2024年3月3日『キリストと出会う32』ヨハネ13章
13:37 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」 13:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
第一テサロニケ5章
14 兄弟たち。あなたがたに勧告します。気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。15 だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行うよう務めなさい。
16 いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
<恵みに目を向ける>
『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。』これは、多くの人に大切にされている聖書の言葉です。一方で、私達は、この言葉のように生きているでしょうか?
むしろ、私達の日常には、喜びよりも悲しみが、多いのではないでしょうか?時間や心に余裕がなく、祈れないほど多忙で困難に満ちた毎日であり、感謝どころが『どうしてこんな事が・・・』と嘆くような出来事が、満ちているのではないでしょうか?
こうありたい、こう歩みたい、そう願いつつも、厳しい現実があり、願い通り歩めない自分がいいて、状況に、そして、自分自身に失望していまうことがあります。
今日のファミリータイムの場面(ヨハネ18章)で、ペテロもそうでした。あなたのためなば命まで捨てる、そう豪語しつつも、キリストなど知らない、自分とキリストとは関係などない、と3度(3は完全数ですので完全に)否定してしまうのです。
なぜパウロはこのような、ペテロでさえ難しかった言葉を私達に語りかけたのでしょうか?じつはこの言葉、パウロが記したギリシャ語で読む時に、また違った響きをもって聞こえてくるのです。その鍵は『恵み』(ギリシャ語で χάρις カリス)です。
Πάντοτε χαίρετε, ἀδιαλείπτως προσεύχεσθε, Ἐν παντὶ εὐχαριστεῖτε· |
16節の『喜び』とは、ギリシャ語でカーラー(喜ぶは、カイロ―)、つまり『恵み』という言葉と同じ語源なのです。また18節の『感謝』とは、ギリシャ語でユーカリスト、良い恵み、という意味です。 この箇所をギリシャ語の響きで聞いた人たちには、無理難題を突きつけられたと尻込みするのでなく、『恵み』という言葉が、繰り返し想起されるのです。
喜びも、感謝も、無理やりするものでも、わたし達の側から生まれるものでもないのです。喜びも、感謝も、与えられた恵みから・神の贈り物から生まれてくるものなのです。
イエスは、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(13:38)と、ペテロの失敗を事前に予告しました。『私は君の失敗などお見通しだ!』『どうせ君などだめだ!』そう言いたいのでしょうか?違うのです。 すぐにこう続くのです。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(14:1〜3)裏切りの予告がされた後、それでも見捨てない、見放さない、裏切りすらも良いことに用いる、そんな予告がされるのです。だから、困難な状況や、自分の弱さに心を騒がせるな、恵み深い神に信頼しなさい、そう語られるのです。神の恵みはいつもあるのです。
わたし達の毎日には、今までも、そしてこれからも、様々な出来事が起こります。悲しみが、諦めが、不満が、失望が、自己嫌悪が、私達の心を満たす日もあるでしょう。だからこそ、パウロは言いたかったのです。嵐のような毎日にも、神の恵みはいつもあるのだ、その恵みに目を向けなさい、と。あなたが自分自身に失望しても、神の恵みは先にあなたに差し出されているのだと。全ての苦難の中にも、神の御手はいつもあなたに延ばされているのだ、だからそのような恐れや疑問、失望の中でも、神の恵みを見出しなさい、と。
また、教会は歴史を通して、聖餐式を、キリストの犠牲を、「ユーカリスト」(良い恵み・感謝)とよび続けました。日々の生活には確かに神の恵みがあり、それが見いだせないようなくらい日々にも、キリストの十字架という神から私たちの大きな恵みが、愛のしるしが、確かにあるのです。だから自分がいかにそれを受けるにふさわしくないように思えても、差し出されるパンとぶどう液を、キリストの私達のために割かれた肉と、あなたのために流された血を、恵みとして受け取るのです。
おざく台を礼拝では、神様がいかに恵み深いか、神の恵みが、いえ、恵みの神様ご自身がいかに素晴らしいか、そのことに焦点を当てて、礼拝していきたいと思います。
そして、神の恵みに目を留めるなら、どのような状況の中でも、この言葉のとおりに、不思議と、喜びや感謝が湧きあがってくるのかもしれません。
<恵みに生かされる>
この箇所の前後を読むと、礼拝の中で聞き慣れた言葉が多く出てきませんか?おざく台教会の礼拝の最後には、『派遣の言葉』(カンバーランド長老教会の式文『神の民の礼拝』より)がありますが、その派遣の言葉はこの箇所に基づいています。
派遣の言葉
神がいつも共におられます。
平和のうちに世界へと出ていきなさい。勇気をもちなさい。
いつも善を行うよう努めなさい。悪をもって悪に報いてはなりません。
気落ちしている者たちを励ましなさい。弱い者たちを支え、苦しんでいる者を助けなさい。全ての人を敬いなさい。主を愛し、主に仕え、聖霊の力によって喜びなさい。
私達はこの派遣の言葉によって、それぞれの毎日に、家庭に、学校に、職場に、送り出されていきます。そして、それぞれの場所で、神の子として、祝福の源である方と結びついた存在として、祝福を流していくのです。もちろん、それは簡単ではありません。けれど、礼拝で恵みを受け、恵みに生かされるなら、このような歩みもまた決して不可能ではないのだと信じています。
私たちがいつも神の恵みに目を向け、恵みを覚え、恵みに生かされていく、一週間と、そして一年となりますように。