2月4日のメッセージ

2024年2月4日「キリストと出会う30」ヨハネの福音書12章 

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20 さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。21 この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。22 ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。23 すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。 

 

 

 作家三浦綾子さんの名作である『塩狩峠』は今日の聖書の言葉から始まります。(主人公の鉄道員が、キリスト教と出会い、生き方が変わってゆき、結納に向かう途中に起こった列車の暴走を我が身を犠牲にして止め、乗客の命を救うという、実話をもとにした物語です。) 

 文字通りの命でなくても、インドの人々に身を捧げたマザー・テレサや、アフガニスタンの人々のために懸命に働かれた医師の中村哲さんなどに重ねて、語られる言葉でもあります。 

 

 自分の命を使うと書いて『使命』と読みます。この箇所を読み、キリスト教徒でなくても、心打たれる方も多いようです。もちろん、マザー・テレサや中村哲さんほどはできません。それでも、命に代表される、時間、力、能力、立場、財産、それらを心を込めて、大切なことのため、必要を抱えている人のために使い、自分を捧げている方は多くおられます。(例えば、教育、医療、福祉、などの分野はもちろん、その他様々な仕事を通して、家族や知人に対して、自分自身を切り分けるかのようにして、使命感を持って関わっておられます。) 

 

 けれど、その時知っておいてほしいのです。私たちは一粒の麦になろうと願います。けれど、私たちの心や身体、能力には限界があるのです。事情が変わり、十分に力を注げなくなることもあります。どれだけ自身を犠牲にしても、豊かな実を結ばない、状況は一向に改善しない、誰からも評価されず労われず、むしろ批判や攻撃を受ける、そんなこともしばしばです。 

 すると、私達の心は疲れ果て、自己憐憫や、諦め、怒りといったものが心に満ちます。最初は人に尽くす良い動機で始めたことでも、いつしか、相手を敵のように感じたり、損得や利用価値で判断してしまったりと、動機が、思いが歪んできてしまいます。(私は教育や保育の現場しか知らないのですが、おそらくどの現場でも似ているかと想像します。) 

 

 ですから、この一粒の麦という言葉を、最初キリストがどのような意味で言ったのかを忘れないでほしいのです。この箇所は、自己犠牲を勧める箇所ではないのです。 

 

 この言葉は、ヨハネの福音書12章、キリストが十字架にかかるその同じ週、受難の直前に語られたのです。(20節の祭りとは、キリストが十字架にかけられた過ぎ越し祭りです。) 

 その祭りの最中、ギリシャ人がイエスに会いにやって来ます。非ユダヤ人。異邦人です。近隣諸国でない、遠い国であり、また文化の中心のような国です。 

 今までは神と関わるのはユダヤ人が中心でした。ユダヤ人だけが、神に愛されると考えられていた。けれどそうではない。ギリシャ人が神を求めてきた出来事は、神の愛が本格的に全ての国の人に広がる時、すべての人が神と出会う時がきたことを意味していました。そして、そのために、自分の十字架が必要なのだ、キリストはそう受け止め、この一粒の麦の話をしたのです。 

  

 この一粒の麦とは、第一義的には私達のことではなく、キリストのことです。私たちが人に、神に、何かをする、それは尊いことです。けれど、その前に、神が私たちに何をしてくれたのか、それが大切なのです。まず先に、キリストは一粒の麦として、地に落ちて死なれたのです。 

 

 聖書には、『一粒の麦が死ななければ』とは書いていない。『一粒の麦が地に落ちて死ななければ』とあります。 

 一粒の麦は、地に落ちたのです。高いところから、地に落ちたのです。快適で安全なところから、低く汚れるところに落ちたのです。 

 キリストが、天から地に来られた、神から人になられた、そこで汚れているとして避けられていた人々とともに過ごし、見捨てられた人に寄り添い、人間の嫉妬や妬み・欲望の犠牲となり、十字架にかけられました。キリストこそが地に落ちて死なれた麦なのです。 

 

 聖書の別の箇所ではこう表現しています。6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われました。』ピリピ教会への手紙 2章6〜8節 

 

 なぜここまでするのか?それは地には私たちがいるからです。低い場所には虐げられた人がいるからです。十字架には、罪人が、つまりは私たちがいるかです。私たちを思うあまり、一粒の麦となられた方がいるのです。作家の二葉亭四迷は「愛している」という言葉の翻訳に悩み最終的に、「あなたのためなら死んでもいい」と訳したそうですが、あなたのためなら死ねると、命を差し出した方が私たちにはいるのです。 

 

人に思いを向ける前に、キリストが私たちにいつも思いを向けていることを忘れないでください。 

人に何かを分け与える前に、キリストが私たちのために全てを分け与えたことを忘れないでください。 

人に寄り添う前に、キリストがいつも私たちとともにいてくださることを忘れないでください。 

 

 そして、あなたはキリストではないこと、あなたには限界があること、を忘れずにキリストが大切に思い、命までささげたあなた自身の心と身体を、大切にし、尊び、ねぎらってください。 

 

 あなたは一粒の麦でありたいと願うかもしれません。けれどその麦は、どこから来たのでしょうか。あなたという麦は、キリストという麦が地に落ちて死に、結んだ実です。あなたはキリストが命を捨てるほどに大切な存在です。 

 麦自体に命がないと、実は結べないのです。キリストの愛をしっかりと受け止めた人こそが、ほんとうの意味で一粒の麦となるのです。 

 

 

<補足>この箇所は、本来の文脈から切り離され、悪用されることがあります。日本は犠牲を美化する文化です。指導者がこの24節の言葉を振りかざし、人々に過度な犠牲を強要したり、過度な搾取や支配をすることがあります さらに25〜26節を本来の文脈から切り離し、日常生活や社会とは切り離され宗教的なことにだけ注力するように、宗教団体のために、時間も力も経済もたくさんの犠牲を払わせるように、教えることがあります。 

 けれど、イエスについていくとはどこに向かうことでしょう?イエスのいるところはどこでしょうか?宗教団体の中でしょうか?いえ、そこにイエスはいません。イエスがいるところは、貧しい人の中、虐げられた人の隣、罪人と嫌われた人たちが座る食卓でした。イエスに従った、マザーテレサは、中村哲さんは、宗教社会の中に向かっていったのではなく、宗教とは無縁の、この世界の目を背けられた現実に、貧しく、見捨てられた人々の中に向かっていったのです。 

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