毎日の聖書10月30日〜

ざく台教会毎日の聖書 10月30日~

 

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

 

 

10月30日(月)エゼキエル書40章  

2節「幻のうちに・・町のようなものが造られていた。」

 聖書での幻とは、幻想や空想でなく、やがて実現する物事を先に見ることです。エゼキエルが都の回復の幻を見たように、「すべての国民、部族、民族、言語」(黙示録7:9~)が神を礼拝する幻が、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである(黙示録21:4)」という幻が。私達には示されています。この希望に胸を躍らせ今日を生きたいのです。

 

 

10月31日(火)エゼキエル書41章

5節「神殿の壁の厚さを測ると」

 神殿の細かい長さや厚さなんて、どうでもいいのでは?と思ってしまうような箇所です。けれど、これを聞いている人々は、神殿は破壊され、街は焼かれ、遠く離れた異国で奴隷なのです。やがて建てられる神殿の細かな数字の1つ1つが、どれほど困難の中で生きる希望となったでしょう?私達も黙示録21~22章を読み、やがての都に、そこで出会える都よりはるかに素晴らしい方に思いを巡らせてみてください。

11月1日(水)エゼキエル書42章

20節「聖なるものと俗なるものとを分けていた。」

聖なるとは、清潔とか高価とかではなく、神のものとして取り分けられた、という意味です。それゆえ、神は高慢で罪に汚れたコリント教会にも、正しく歩めない私達にもこう呼びかけるのです。「聖徒たち」(Ⅱコリ1:1)と。

 私たちには、愚かさや、醜さや、歪みや、傷や、穢れがあるかもしれせん。それでも聖なるものとして、神に愛され、期待されて、今日という一日に送り出されているのです。

11月2日(木)エゼキエル書36章

9節「私は永遠に彼らの中に住む。」

 この言葉は大袈裟でも、象徴でもありません。実際に、聖霊なる神が私たちのうちに住んでくださいました。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮」(Ⅰコリ6:19)なのです。自分を大切にし、尊い存在にふさわしく今日を歩んでください。

11月3日(金)エゼキエル書37章

15節「イスラエル人が迷ってわたしから離れたときも、わたしの聖所の任務を果たしたツァドク

 キリスト教とは、「あの世」のことだけを考えて現実世界をおろそかにするのでも、この世界の常識や物事を軽んじるのでもありません。真の宗教とは、浮世離れするのではなく、地に足をつけ、世の光となるのです。

 けれど、神と隣人とを愛することにおいて、平和の実現においては、たとえ多くの人が1つの方向に流れたとしても、けっして妥協はしないのです。あなたが流されそうになっていることはありませんか?神様はその物事をどう見ておられるか、ゆっくり考えてみてください。

11月4日(土)エゼキエル書38章

10節「正しい天秤、正しいエパ升、正しいバテ升を使え。」

 金銭を神として崇める者は不正を行います。あなたが策略や偽りを用いてまで手に入れようと求めているものは何でしょう?それがあなたの偶像です。自分の心に偶像はないか、探ってみてください。

11月5日(日)エゼキエル書39章

18節「わたしの民がその所有地から一人でも散らされないようにするためである。」

 古代において所有地とは、神から人への祝福です。私たちは大地主ではないかもしれませんが、土地に変わる祝福としてはキリストが与えられました。私たちの言動が、人をキリストから散らし、遠ざけるものでなく、人を神へと近づけるものでありますように。

Top