毎日の聖書9月25日〜
おざく台教会毎日の聖書 9月25日~
1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。
9月25日(月)エゼキエル書5章
11節「わたしは生きている。」
もし神がおられないのなら、この生涯に意味はなく、神の助けが期待できないのなら、人は好き勝手に、自己中心に生きてもよいのかもしれません。しかし神は生きておられ、私たちと関わり、支え、報いてくださいます。まるで神がいないかのように、なんの頼りにもならないかのように、歩んではいませんか?
9月26日(火)エゼキエル書6章
14節「わたしが主であることを知ろう。」
神がおられること、神に従うことが最善であることを知るのに、2つの方法があると言われています。一つは、神の言葉を信じることを通し喜びとともに神を知る、もう一つは神の言葉を軽んじ、痛みを通し後悔とともに神を知る。あなたはどちらを望みますか?
9月27日(水)エゼキエル書7章
19節「銀も金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出すことはできない。」
お金は困難な状況から私たちを救うことが出来ますが、私たちの魂を救うことはできません。お金に代表される繁栄を求めるか、神を求めるかは、人がどのような救いを求めているかによります。私たちが求める「救い」とは何でしょうか?それは、平安と、愛と、謙遜をもたらす救いでしょうか?
9月28日(木)エゼキエル書8章
6節「あなたは彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか。あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう。」
人は神に対して、行為も、思いも、何事も隠すことはできません。神が全てをご存知なのです。それならば、私達のすべきことは必死に隠しごまかすことでなく、むしろ正直に打ち明け、悔い改め、新しく歩みだすことです。慈しみと憐れみに満ちた神は、それを今か今かと待っていてくださいます。
9月29日(金)エゼキエル書9章
4節「すべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」
恐ろしい裁きの中でしるしがある者だけがそれを逃れました。私たちにつけられたしるしとは、キリストの血潮です。どれだけ愚かでも、醜くても、罪深くても、良いのです。あなたは十字架により、恵みによって、すでに救われているのです。
9月30日(土)エゼキエル書10章
4節「庭は主の栄光の輝きで満たされた。」
大切なのは、立派な神殿でも、不思議なケルビムでもなく、主の栄光です。神の栄光がなければ、それはただの建物、ただの生物です。
教会に大切なのは、信仰者に大切なのは、表面的に宗教的な自分を繕うことではなく、溢れ出る愛と謙遜、キリストの姿勢です。
10月1日(日)エゼキエル書11章
19節「石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。」
神と神の言葉への頑な石の心を持ってはいませんか?神は御言葉に応答できる柔らかい肉の心を与えてくださると約束しています。それが欲しいですか?求めて祈ってみませんか?