9月17日のメッセージ

2023年9月17日「キリストと出会う⑳」

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8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。 8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、 8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。 8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」 8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。 8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」 8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。 8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。 8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」 8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

自分の内側を見つめる

 「氷点」「続氷点」(三浦綾子作)ではこの聖書箇所が、主人公の心が大きく変化するきっかけとして登場します。一般的に見れば、主人公は被害者であり、相手を恨んだり憎んだりしても全く不思議ではないのですが、この「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」というキリストの言葉を通し、自分の内側を見つめ、自分自身の心にも罪があり、決して人で責めることは出来ない、むしろ自分自身にも赦しが必要なのだ、と気付かされるのです。

 

 この箇所は、自分の内側を見つめ直し、内なる罪や醜さと向き合い、まず自分が赦しを体験することで、人を赦すことへと繋がっていく、という文脈で用いられ、大切にされてきました。(もちろん決して、誰かの過ちを責めず泣き寝入りしましょうとか、不正行為については大目に見ましょうとか、そういう意味ではありません。不正や悪に声を上げることと、赦しとはまた別のことなのです。)

 

 ただ、今日は私達自身の内側ではなく、まずイエス様に注目してこの箇所を読みたいのです。この有名なセリフ以外のイエス様は何をして、何を言ったでしょうか?

 

<地面に何か書いているイエス>

  「イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」(6節・8節)

 

 この場面で、宗教家は女性の過ちを罰しようと熱心です。彼ら宗教家(パリサイ人・律法学者)は、聖書を解釈し、何が罪か、何が罪でないか、議論しました。ユダヤの宗教社会では、律法に沿うことが、社会的な評価や称賛につながり、戒律に反することには、社会的な制裁も伴ったのです。コロナ禍でのマスク警察のように、秋の交通安全運動期間中の白バイ隊員のように、律法警察として、違反を見つけ、指摘し、批判し、処罰し、見下し、切り捨てるのに非常に熱心でした。

 そして、石を投げるという行為は、社会的な刑罰以上に、宗教的な裁きを意味しました。神の呪

いの宣言と実行であり、宗教社会の中で、自分こそが神の代弁者、神の御心の代行者だと自負し、熱心に行動していたのです。(社会的・宗教的優位を示し、満足感に浸っていた面もあるでしょう。

 けれど、彼らは気づいていないのです。本当の罪は、彼らの内側を病のように蝕んでいることを。「間違っている、罪だ、神の呪いを受けよ」と叫び、女性を道具のように使ってイエスを攻撃しようとする姿が、どれだけ罪の醜さに溢れ神を悲しませる姿であるかを。

 

 ところが、まさに自分こそが神の意志を実現しているかのように振る舞う宗教家たちとは対象的に・・・「しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。」(6節・8節)誰よりも、神の心を語り、神の意志を実現するはずの方が、この大切な場面で、砂いじりをしているのです。

 

 もちろん、自分を向けられた罠への拒絶の姿勢でもあるでしょう。(律法どおりに「石を投げよ」と言えば、勝手な死刑を禁じているローマに訴えることができた、「石を投げるな」と言えば律法に背いたと批判が出来た、どう転んでも、イエスを攻撃出来たのです。)

 

 けれど保育や教育に携わったことがあるなら、このイエスの姿に覚えがあります。運動会練習の時、避難訓練の時、一生懸命に話す先生には全く興味を持たず、ひたすら地面の砂をいじる、園児・生徒の姿に似ています。(普段は砂にそれほど興味を持たないのに!!)

 

 イエスは宗教家が熱心にしていた「罪に定める」ことに、砂ほどの興味もなかったのです。罪を軽視しているわけではありません。「今からは決して罪を犯してはなりません。」と諭したように、そのような行為が彼女自身も、周囲の人も損なう、ことを心配しています。けれども、誰かを「罪人だ」と指差すこと、神の呪いを宣言し石を投げつけること(つまり罰し、切り捨て、見捨てること)、には関心がないのです。

 

 教会は、罪の影響を心配します。けれども、それが行き過ぎて、他宗派や、他宗教の方々に対して(時に同じ教会でも?)、罪人だ、神が罰するべきだ、と指差し、神に愛されない、と否定したり、これが神の怒りだ、と攻撃することばかりに熱心になっていまいます。

 また、そのような神を印籠のようし示して、否定し合、脅し合う文化に染まりすぎたためか、自分を指差し、私は神の愛を受ける資格に乏しいのです、とか、私はダメな信仰者で神は私に怒っています、という方も多くいます。

 

 こんな私は神に愛されないのではないか、そう思うことは(とても謙遜なようで)、やっていることは宗教家と同じです。人間が人や自分に、あなたは(わたしは)神に愛されない、という呪いのレッテルを貼るのですから。

 

 罪、穢れ、失敗があることと、神に愛されないことは別問題なのです。

神は私達の罪は悲しみ、罪の影響を心配します、心配しすぎて私達の身代わりに十字架で死んでしまうほどです。一方で神は私達を、呪い、罰し、切り捨てることには、地面の砂ほども関心がないのです。

 宗教家は旧約聖書に沿って死刑だと主張しました。罰を、報いを受けよ、神に呪われて死ね、と、言います。けれど神の言葉イエスは言うのです。「わたしもあなたを罪に定めない。」そして、自らは十字架に向かわれるのです。神は、呪うことでなく祝福することに、罰することでなく赦すことに、滅ぼすことでなく救うことに、関心があるのです。

 

「死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:38〜39)私達のどんな過去も、愚かさも、醜さも、罪も、それが神の愛を吹き飛ばしたり、消し去ったり、することは出来ないのです。

 

<光のあとを歩む>

 この出来事の直後に、今年の教会のテーマ聖句が続きます。

8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 

 (このヨハネ8章の冒頭部分はカッコでくくられています。古い写本には見られないことから、イエス様のなさったことに間違いはないのですが、ヨハネ福音書の成立後に、教会が加えたのではと考えられ、最新版では欄外に移動になりました。もしそうだとしても、この石打ち刑の出来事が、この位置に入れられたことの意味をしっかりと受け止めたいのです。)

 

 人を見ること、自分を見つめることは大切です。けれど、神に熱心に向かっていはずの宗教家達が、神を悲しませていたように、私達も、イエスを、神の恵みを見失うと闇の中を歩んでしまうのです。忘れないでください。 信仰者にとっての最高法規・憲法とはいつの時代も「イエス・キリストの存在とその言動」(青山学院大学宗教部長の塩谷直也教授) です。

 

 そして、神のことば(ヨハネ1:1)であるキリストは、あなたに言われるのです。「わたしもあなたを罪に定めない。」。神はあなたを呪っているのでなく、祝福しています。嫌っているのでなく、愛しています。怒り罰しようとしているのではなく、慈しみ救おうとしています。

 神は、「お前はもうダメだ。」「お前は終わりだ」とは言わなかったのです。女性に言うのです。「行きなさい。」(ヨハネ8:11)罪でなく、闇でなく、光の中を新しく歩み出しなさいと。

 

光の中とは、神と愛とゆるしと憐れみのある場所です。私達も、何度つまずいても、どれだけ自分に失望しても、イエスの愛と赦しに目を向けたいのです。私たちを信じ「行きなさい」と言ってくださるイエスの言葉を聞いて、光である方の後を、光の中を、今日も明日も、歩みだすのです。

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