毎日の聖書4月3日〜

おざく台教会毎日の聖書 4月3日~

1日1章の聖書通読を用意しました。短い励ましの言葉と、それに沿った聖書から神様の言葉を添えました。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ

4月3日(月)箴言26章

20節「たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。」

誰かへの苦々しい思いを、言葉の陰口として発したり、または心の陰口として思い巡らしたりしてはいませんか?それは内なる罪に餌をやる行為であり、罪はどんどんと力を蓄えてしまいます。その時間とエネルギーを人を祝福するために、また祈りに、用いてみませんか?その時、あなたの内におられる聖霊なる神さまが、喜んであなたを力づけ、導いてくださいます。

「あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。」ヤコブ5章13節

 

4月4日(火)箴言27章

19節「顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。」

リンカーン大統領は「自分の顔に責任を持て」と言ったそうです。私達は耳から入る言語だけでなく、声の調子を通して、また目で見える姿など様々な非言語的メッセージを通して、相手を知ります。私達の表情が、振る舞いや生き方が、私達が何を信じ、何を愛し、何に頼り、何を大切にしているかを証しするのです。無理やり信仰深く・善人らしく振る舞う必要はありません(演技はバレます)。ただ、心でキリストを愛していれば、恵みに感謝していれば、神を喜んでいれば、自然と伝わるでしょう。信仰とは、やり方以上に、あり方なのですから。

「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」箴言4章23節

 

4月5日(水)箴言28章

11節「富む者は自分を知恵のある者と思い込む。分別のある貧しい者は、自分を調べる。」

神学校で学んだ一つの大切なことは「自分を疑え。」ということでした。神の存在や神に与えられた救いを疑うのではありません。(それは単なる不信仰だそうです。)神でなく自分を疑うのです。人間は、自己義認し、高慢になって他人を裁く存在であることを覚え、絶えず神の言葉を通し、自分を調べるのです。自分を疑えるものは、謙遜に神に聴きます。心か神に向いているため、他人を裁くことをせず、人の評判に関心を持ちません。神の愛と救いに支えられ、しなやかに生きます。あなたは?

「義人はいない。ひとりもいない。・・・すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」ローマ3章10、23~24節

 

4月6日(木)箴言29章

23節「人の高ぶりはその人を低くし、心の低い人は誉れをつかむ。」

罪とは、高慢に近い言葉かもしれません。悪魔はアダムとエバを神のようになれる、と誘惑しました。自分が世界の中心である、自分こそが常に正しい、自分が主導権を握りたい、それが罪あるわたし達の願いです。それで、自分も人も幸せならよいのですが、実際には互いに傷つけ合い、呪い合ってしまいます。神と人への謙遜はわたし達を不安にさせます、しかし、謙遜こそが、自己中心から神中心への転換こそが、自由と幸いへの道なのです。

「みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」第一ペテロ5章5節

 

4月7日(金)箴言30章

8~9節「不信実と偽りとを私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で私を養ってください。 私が食べ飽きて、あなたを否み、『主とはだれだ。』と言わないために。また、私が貧しくて、盗みをし、私の神の御名を汚すことのないために。 」

 哲学者であり、科学者であり、神学者であるパスカルは「人の心の中には、神が作った空洞がある。 その空洞は創造者である神以外のものよっては埋めることができない。」と著書パンセの中で記しています。私たちのうちには、「もっと、もっと」と際限なく求める心が存在します。心に空いた空洞を埋めようとする行為自体は間違いではありません。しかし、神以外のものでは埋まらないのです。今日の箴言の有名な言葉は、神こそを自分の宝として、神を畏れる者の祈りです。あなたは?

「私は、主に申し上げました。「あなたこそ、私の主。私の幸いは、あなたのほかにはありません。」詩篇16篇2節

 

4月8日(土)箴言31章

30節「麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。」

 これは麗しさ、美しさを否定しているのではありません。神に造られた自分を喜び、健康を保ち、美しく飾るのは良いことです。そして、外見の麗しさよりさらに大切なことがあります。それは心、あなたのあり方です。そのあり方は、神を畏れるあり方です。神を尊び、神の心を考え、キリストの歩みに従おうとするあり方です。そのようなあり方こそが、本当の美しさ、本当の麗しさではないでしょうか?

余談ですが、あるアメリカの黒人教会では、最高のオシャレとお化粧で、喜び溢れて礼拝に行くそうです。なぜなら、誰より愛する方に会いに行くのですから。心も外面に表れるのですね。

「彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」」第一サムエル記16章7節

 

4月9日(日)伝道者の書1章

2節「空の空。すべては空。」

 伝道者の書は、神無き人生の虚しさを記していると言われます。もし、私達が偶然生まれだけの意味のない存在だとしたら・・・?もし、私達が生きるべき目的など本当は何も存在しないとしたら・・・?もし、死の後、私達はただ塵に帰るだけだとしたら・・・?しかし、私達は神に造られた存在であり、私達の生涯には神の愛に満ちた深いご計画があり、私達は死後に天の父のもとに迎え入れられるのです。ですから、安心してください。すべては空・・・ではないのです。私達は「わたしは有る」(出エジプト記3:14)という方に、「あれ」と言われて創造され、今ここに存在しているのですから。

「神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。」創世記1章3節

Top