2月19日のメッセージ(マタイ20章)

2023年2月19日「神さまの良い知らせ20〜後のものが先になる〜」

 

<聖書 マタイの福音書20章>

19章 29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。30 ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。

20章 1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。2 彼は、労務者たちと一日一デナリの約束ができると、彼らをぶどう園にやった。3 それから、九時ごろに出かけてみると、別の人たちが市場に立っており、何もしないでいた。4 そこで、彼はその人たちに言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当のものを上げるから。』5 彼らは出て行った。それからまた、十二時ごろと三時ごろに出かけて行って、同じようにした。6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』8 こうして、夕方になったので、ぶどう園の主人は、監督に言った。『労務者たちを呼んで、最後に来た者たちから順に、最初に来た者たちにまで、賃金を払ってやりなさい。』9 そこで、五時ごとに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつもらった。10 最初の者たちがもらいに来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らもやはりひとり一デナリずつであった。11 そこで、彼らはそれを受け取ると、主人に文句をつけて、12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』13 しかし、彼はそのひとりに答えて言った。『友よ。私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」

 

 

<後のものが先に、先のものが後に>

 聖書の中で、ぜひとも覚えておいてほしい言葉があります。それは「後のものが先になり、先のものが後になる。」という言葉です。これは神様が、順番抜かしや、横入り、ズルをさせるという意味でも、努力や苦労が無意味という意味でもありません。これはカルト宗教とキリスト教とを分けるものであり、恵み、恩寵、福音といった、キリスト教の真髄とも深く関わる言葉です。

 今日のぶどう園の例えは、19章の続き、金持ち青年が去った後、弟子たちが「自分たちは神のためにいろいろなものを捨てました。ですから、私達は神の国に招かれるのは当然として、さらにどんな素晴らしい報いがあるでしょうか?」とアピールしたことに対して語られました。また、19章30節と20章16節の「後のものが先に、先のものが後に」という言葉に挟まれ、その言葉と深く結びついた、イエス様の福音を知るうえで大切なたとえ話です。

 

<後のもの:選ばれなかった5時から男たち>

 当時、ぶどうの収穫期になると、多くの働き手が必要だったため、1日1デナリオン(約1万円)で雇われる日雇労働者が求められました。雇い主は、効率よく収穫したいため、健康で力がある者を選び、選ばれた彼らは早朝から働きますが、目的であった仕事にありつき、安堵します。逆に、力や魅力に乏しく、選ばれなかった者は、悲しみ、先行きの不安の中で過ごします。

 

 ところがぶどう園の主人は、9時、12時、15時と、選ばれなかった人を、後の者を呼ぶのです。選ばれなかった人たちですから、体力や健康、年齢を考えれば、あまり有益でない人もいたかもし

れません。けれどイエスの示すぶどう園の主人は彼らを選ぶのです。

 

 そして、夕暮れも迫る17時のことです。(当時は朝6時〜夕方18時が日雇いの労働時間でした。)

6 また、五時ごろ出かけてみると、別の人たちが立っていたので、彼らに言った。『なぜ、一日中仕事もしないでここにいるのですか。』7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』彼は言った。『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。』

 

 いったい何の意味があるでしょう?彼らは最後の最後まで、選ばれなかった人たちです、雇い人の眼鏡にはかなわない、箸にも棒にもかからなかった人たちです。何の役に立つでしょう。どんな貢献ができるでしょう。主人に何を差し出すことが出来るでしょう。そしてあっという間に日が暮れるのです。

 

 ところが主人は、真っ先に、彼らに、他の人の約束と同じ1デナリオンを支払うのです。(神の恵みは1万円程度ではありませんが、あくまで例え話ですのでご理解ください。)

 

 朝早くから来ていた人は、不公平だと抗議します。約束以上によこせと言います。後から来た者たちは、功績がないではないか!、力も魅力もないではないか!主人に何も差し出していないではないか! まるで、自分の富や立場や立派さを誇った金持ち青年(19章16,20節)や、自分の献身度合いを誇った弟子たち(19章27節)のようです。

 

<気前のいい方>

 そんな彼らにぶどう園の主人は言うのです。「私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』(14〜15節)

 

 けれど、ぶどう園の主人は、私は彼らに良くしてあげたいだけなのだ。彼らは何も差し出せないかなんて関係ない、彼らの生活を支え、心配を取り去り、ただただ受け取って喜んでほしいのだ、と言うのです。これがイエス様の示す憐れみ深い父なる神様です。

 

 私達は、自分の差し出すものの良さ、素晴らしさと交換に、対価として、報酬を得ようとします。(それ自体は素晴らしいことです。)けれど、神の愛は、天の御国は私達の良さによって入るのではなく、永遠のいのちは私達の差し出すものの良さによって交換条件で獲得するのではなく、迎えてくださる方の、与えてくださる方の気前の良さ(原語ではシンプルに「良い・善い」です。)によるのです。

 

 当時の人の基準では後の者、つまり、功績も価値もない劣った存在が、失敗や罪や悩みを抱えた存在が(つまり神の国から最も遠いと考えられていた存在が)、神の基準では先になる、ただただ恵みを受けとって、神の国に迎えられる。

 逆に、当時の人の基準では先の者、つまり、社会的地位があり、金持ちで、善良で、熱心で、犠牲を払うことのできる存在が(神の国に真っ先に入ると思われていた存在が)、自身の力や功績で神の国に入ろうとするあまり、大切な恵みを見失い、神の国から遠ざかる、というのです。

 

 ですから、イエス様は先の者の代表である宗教家たちに言うのです。「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです。」(マタイ21章31節) そして、十字架の上では、後の者の代表である死刑囚・強盗に言うのです。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23章43節)

 

「神が与えられるのは賃金でなく贈り物であり、報酬ではなく恩寵である。」バークレー

 私達は自分の素晴らしさを誇るのでも、自分の失敗や罪に注目して落ち込むのでもないのです。人の優れた面を見て比べて妬むのでも、人の欠けを見て裁くのでもないのです。ただただ、与えてくださる方の恵みに注目するのです。

 

 イエス様はこの後、ご自分の十字架を3度めに予告して言われます。「人の子(キリスト)が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためである」(20章28節)私達の信じる神は、ひたすら憐れみ深く、慈しみ深く、私達のためにいのちいすら与えるために、来られた方なのです。

 

 私達は、5時からの者として、後の者として、何の功績もなくイエスさまから祝福されたこども(19章14節)なのです。そして、ただただ恵みを受け取る時、イエス様は私達の上に手を置き、祝福し、「天の御国はこのような者たちの国なのです。」と誓ってくださるのです。

 その幸いに生きる時、私達の心は、生活は、善い方に、キリストに似せられていくのです。

Top