毎日の聖書5月16日〜22日

おざく台教会毎日の聖書 5月16日~ 1日1章の聖書通読を用意しました。1日1章を読んでみてください。お手元に聖書がない方は、その日の冒頭 に載せた一文だけで大丈夫です。みなさまの毎日の祝福を祈りつつ。

5月16日(月)第2列王記18章

6節「彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。」

人はその家庭環境・生育環境から大きな影響を受けることは事実です。それが生涯に暗い影を落とすことも あるでしょう。ヒゼキヤは、悪王アハズの子であり、親からの悪影響や王としての誘惑もありました。

しかし、彼は主の目にかなう事を行ったのです。どんな悪い環境や誘惑の中でも、「主に堅くすがって離れる ことなく」御心に歩むことは可能だと証明してくれたのです。

私達は、自身の生まれや育ちに対して、思うところはあるかもしれません。過去は変えられませんし、過去か らの影響もあるでしょう。けれど、神と共に歩む現在と未来を選ぶのは、私達の大切な務めなのです。

「私の命令を守って、生きよ。私のおしえを、あなたのひとみのように守れ。」詩篇 7 篇 2 節

5月17日(火)第2列王記19章

14節「ヒゼキヤは、使者の手からその手紙を受け取り、それを読み、主の宮に上って行って、それを主の前 に広げた。」

ヒゼキヤは直面する問題のすべてを、神の前に広げました。問題や弱さがあることは恥ではないのです。神は そんなことで、あなたを見捨てたり見限ったりはせず、むしろあなたを慰め、解決を与えてくださいます。神の 目の前にはもともと、全てが明らかなのです。大切なのは、私達の態度であり、姿勢です。あなたの問題を、弱 さを、神の前にさらけ出し祈ってください。

「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されて います。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」へブル 4 章 13 節

5月18日(水):第2列王記20章

19節「ヒゼキヤはイザヤに言った。「あなたが告げてくれた主のことばはありがたい。」彼は、自分が生きてい る間は、平和で安全ではなかろうか、と思ったからである。」

ヒゼキヤは 15 年の余命をもらいますが、その 15 年が、バビロン捕囚の原因ともなる過ちを犯し、最悪の王 マナセを生む期間となりました。生涯の長さや、平穏な日々は、素晴らしいことですが、それ以上に大切なの は、短い日々でも、嵐のような毎日でも、神と人を愛し、誠実に歩むことです。

エノクと言う人物は(当時としては)他の人の半分にも満たない生涯でした。けれど、神と共に歩んだ人とし て証されています。私達はヒゼキヤに倣いましょうか?エノクに倣いましょうか?

「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」創世記 5 章 24 節

5月19日(木)第2列王記21章

2節「彼は、主がイスラエル人の前から追い払われた異邦の民の忌みきらうべきならわしをまねて、主の目の前 に悪を行った。」

他国の神や価値観を取り入れる、偶像礼拝は、他国との友好関係を円滑にし、自国を経済的に繁栄させます。 儀式に伴う快楽は、愉しく、魅力的で、人間的観点から見れば良いことばかりです。

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しかし、それは神との関係を損ない、あなたの歩みをゆがませ、「主の目の前」には悪なのです。 あなたの生活、周囲とのかかわりは、主の目にどう映っていますか?

「ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた命令と律法をよく守り行い、あなたがたの神、主を愛し、その すべての道に歩み、その命令を守って、主にすがり、心を尽くし、精神を尽くして、主に仕えなさい。」ヨシュア 記22章5節

5月20日(金)第2列王記22章

11節「王は律法の書のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。」

衣を裂くとは、痛恨の感情の表現です。ヨシヤは、律法を読み、神の言葉を聞き、いかに自分達の生活が神の 言葉から遠いかに気づき、激しく悔いました。私達も、神の言葉を聞き、自分の衣を裂けますように。

「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。」黙示録 2 章 5 節

5月21日(土)第2列王記23章

26節「それにもかかわらず、マナセが主の怒りを引き起こしたあのいらだたしい行いのために、主はユダに向 けて燃やされた激しい怒りを静めようとはされなかった。」

ヨシヤ王の宗教改革の成果は素晴らしいものでした。しかし、それをもってしも、マナセ王の悪影響は残り、 神は怒らずにはおられません。このことは、人の応答が無意味と言うのではなく、人の悪がいかに深刻かを、人 間自身の正しさでは神の前に立ちえないことを、表しています。だからこそ、キリストの十字架のみが私たちの 救いなのです。

「その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。 地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。」コロサイ 1 章 20 節

5月22日(日)第2列王記24章

2節「そこで主は、カルデヤ人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アモン人の略奪隊を遣わしてエホ ヤキムを攻められた。ユダを攻めて、これを滅ぼすために彼らを遣わされた。主がそのしもべである預言者たち によって告げられたことばのとおりであった。」

神に不従順だった南ユダ王国についに終わりがやってきます。神は愛の方であり、正義である方なので、悪に 対処せずには、罪に報いずにはおられないのです。同じくユダの民と同じく不従順な私たちに滅びが来ないの は、ただただ神の愛のゆえ、キリストの十字架のゆえなのです。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために 生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」第一ペテロ 2 章 24 節

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