5月15日のメッセージ

おざく台教会2022年5月15日「あなたはわたしに従いなさい」

<聖書:ヨハネの福音書>

21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」 21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」 21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。 21:21 ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」 21:22 イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

<隣の人が気になる私達>

こども達はお互いが気になるようでちょっとした差があると、「ズルい」「ひどい」と、親や先生に訴えます。「うらやましい!自分も欲しい!」という願いに加え、「私もあなたに大切にされたい!」という想いもあるようで、目に見える違いを通して、こどもながらに人からの愛情や、自分の価値、を測っているようです。

それは、私たち大人も同じではないでしょうか?私達は一人一人違った存在として造られ、それぞれ違った道を歩むように、個々の場に置かれています。容姿、能力、経済状態、家柄、仕事、家族構成、学歴、病歴、友好関係、生活に起こる様々な出来事・・・全く同じ人は一人もいません。そのような違いが、わたし達の心や信仰を揺さぶるのです。

旧約聖書に記された10の戒め、十戒には、「あなたの隣人のもの(家・家族・所有物)を、欲しがってはならない。」(出エジプト記20:17)と記されています。殺すな、盗むな、という具体的行為に加えて、欲しがる、という心情が禁じられている。欲しがること、羨み妬むことは、放っておくと、大きな罪の源となり(ダビデ王は人の妻を欲しがり、サウル王はダビデの魅力を妬み、2人とも大きな罪へと落ちていきました。)、神がすでに与えてくださっている素晴らしいものや、神が備えてくださっている歩むべき道から、目を背けさせ、私たち自身を損なう危険があるのです。ペテロがかつて、イエスを一心に見つめて湖を歩くという奇跡を体験しながら、風を見て(イエスから目を逸らし)、沈んでいった出来事(マタイ14:30)を思いだします。

今日の聖書の箇所のすぐ前、使徒ペテロはキリストの赦しを体験し、教会のリーダーとして再び任命され、心は感動で震えていました。しかし、この後、自分が苦労を体験すると聞き(18節)、眉をひそめたようです。すると、キリストに向いていた目が、隣へと向いていきました(20節)。そして、12弟子の一人ヨハネについて質問します。「主よ。この人はどうですか。」(21節)「この人はどんな苦労をしますか?」「ひょっとしてこの人は私ほどは苦労せず、迫害を生き延びるのでしょうか?それはズルいでしょう?私は愛されていないのでしょうか?」

かつては身体が沈みましたが、今度は心が、信仰が沈もうとしています。

私たち人間は本来、神との関係の中で、自分の価値や幸いを見出してきました。けれど、カインとアベルの出来事(創世記4章)以来、私たちは横と見比べることで、神が自分とどう関わるか、だけでなく、神が隣の人とどう関わるか、それによって自分の価値や幸い,そして、神の愛を判断する過ちを犯します。

そして、カインが神の愛も、自分自身の歩むべき道も見失い、アベルを殺してしまった危険が私達にもあるのです。(補足:妬みだけではありません。恨みもそうです。ニネベを恨んだヨナは、神がニネベを罰することを期待して、ずっと見ていました。自分の望み通りの罰を神がニネベに与えないことに怒り狂います。私たちもヨナのように、「私達を苦しめたあの人を神はひどい目に遭わせるはずだ!」という思いに縛られ、神様を、そして自分自身の歩むべき道を、見失ってしまっていないでしょうか?)

 一人一人は、違いますし、人との比較は自分を知る上でも、とても大切です。羨んだり、妬んだり、怒ったりや恨んだり、生きていれば、必ず直面する感情です。けれど、横を見すぎて、上を見ることを忘れ、神と自分を見失ってはならないのです。ある説教者は言いました。「あなたは鳥が頭の上を飛ぶことをやめさせることは出来ないが、鳥があなたの頭に巣を作ることをやめさせることはできる。」だからイエスの言葉が必要なのです。

<あなたはわたしに従いなさい>

最初ペテロの心には響かなかったのかもしれませんが・・イエスはペテロの苦労を告げただけでなく。素晴らしい招きの言葉を語っていました。「わたしに従いなさい。」(19節)

もし人間がこう言うなら、「命令を聞け、口答えするな。」、そんな程度の意味でしょう。しかし、キリストの場合は違います。キリストは口だけではなく、その生涯すべてで、神でありながら誰もよりもへりくだり、見捨てられ傷ついた人に寄り添い、惜しみなくいのちを分け与え、十字架にまでかかる方でした。

キリストは、ただ道を指差し、そちらへ行けと、苦労をしろ、重荷を負え、と命令する方ではありません。ペテロが招かれた歩みは、すでにキリストが歩んでいました。ただの苦労の道ではないのです、先にイエスが歩んだ道です。そのイエスがペテロに、私の足跡をたどってくれ、と招いているのです。

ペテロは教会のリーダーとして尽力し、皇帝ネロの時代にローマで逆さ十字架刑で死刑になります。

一方でヨハネはエペソ教会を導き、島流し先のパトモス島で黙示録を記します。(12弟子でただ一人死刑にはなりませんでした。)確かに二人の歩んだ道は全く同じではありません。では、ペテロはずっと不満だったでしょうか?いえ違います。ペテロは、やがて神に動かされこのように記しています。

「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」 第一ペテロ2:21

ペテロは後に気付いたのです。自分の前にも、ヨハネの前にも、それぞれのためにキリストが残された足跡があることを。別々の二人が歩んだのは同じキリストの道でした。

<あなたの人生の、キリストの足跡>

 わたしたち一人一人の前にも、キリストの足跡があります。ペテロになる、ヨハネになる、別の誰かになるのでもなく、自分の前に置かれたキリストの足跡に、それを先に歩まれた方に、自分の名を呼ぶ声に従うのです。

もっと違う自分に生まれたかった、違う環境からスタートしたかった、違う道をたどりたかった、そう思う気持ちもあるでしょう。

けれど、あなたの目の前にあるキリストの足跡をたどれるのは、世界であなただけです。他の誰かに頼むことは出来ません。目立たないかもしれません。光が当たらないかもしれません。苦労は絶えないかもしれません。けれどそれは神があなたに「生きよ。」(16:6)と語りかけた生涯であり、「これが道だ、これに歩め」(イザヤ30:31)、といわれた、あなただけの道なのです。

聖書を読んで驚いたのは、神様は私たち一人一人に素晴らしい計画を持っている、歩むべき道を用意してくださっているということです。

「 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 」(エレミヤ29:11)

その道を、あなたの毎日を、一生を、投げ出さないこと、諦めないこと、むしろ、「キリストならどうなさるか?」と問いながら、それぞれの生活の場、仕事の場でキリストの足跡を探し、一歩一歩その足跡に自分の足を重ねながら歩むのです。神が天へと招く日まで。それはあなただけにしかできない使命です。

そして、キリストの道であるなら、「神の栄光を表す」ことに、人が慰められ、癒され、祝福されるといった、神の善いわざにつながるのです。先ほどのペテロの言葉はこう続きます。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」(第一ペテロ2:24)私たちの苦労は、決して無駄ではないのです。

<本当の責任>

ペテロは、教会のリーダーという素晴らしい責任ある大役を授かりました。しかし、それは自己満足のためではありません。責任(Responsibility)とは応答(Response)と能力(Ability)という言葉が合わさったものです。私が責任者だから偉いのだ、とか、何かあった時に責任を取る、と言った意味ではなく、目の前の出来事に応答する能力と責務を神から与えられている、という意味です。ある人は、能力、立場、財産、知識、技術、人脈、などが豊かに与えられています。キリストは、神でありながら、その全てを注ぎ出しました。わたしたちに与えられた力は、小さなものかもしれません。けれど、神様が愛と期待を込めて私達一人一人にあたえてくださったものです。それは人に仕えるために、あなたに委ねられたものです。

<今週の黙想>第一ペテロ2:21~25を読み、「あなたはわたしに従いなさい。」というこの語りかけに思いを巡らし、自分なりに神の愛に応える応答をしてみてください。

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