5月8日のメッセージ

おざく台教会2022年5月8日「あなたはわたしを愛しますか?」

<聖書:ヨハネの福音書>

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

 21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

 21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか。」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

<母の日の起源>

 今日は母の日です。これは教会から始まった習慣です。19世紀のアメリカ、アン・ジャービス(牧師の妻でもありました)を中心とした女性たちが、社会福祉のために奮闘し、南北戦争では敵味方関係なく負傷兵の治療に当たりました。アンさんの死後、娘さんが追悼記念会を主催し、好きだった白いカーネーションを教会に飾り、アンさんを始めとした女性達が、神と人を一生懸命に愛したことを記念しました。

 男性が争いばかりを起こしがちな一方で、女性はキリストの愛や柔和さや平和を示すのに非常に長けています。アンさんの例が示すとおり、キリストのいのちが、女性の言動を通して実現する、受肉するのです。(受肉は英語でインカ―ネーションと言います)

 母の日というのも、その本来の意図としては、(もちろん母への感謝を表しつつ)、女性の存在を尊び、その素晴らしい姿に倣う日であるのです。おざく台でも、全ての女性への感謝を込めてお花とカードを用意させていただきました。そこには、全ての女性は、身体的な意味だけでなく、精神的にも、霊的にも、いのちや祝福を生み出す存在です、といった旨を記しました。

<私たちに問いかける神>

 一方で、神と人を愛することに失敗した人物として、よくイエス様の一番弟子、ペテロの例が挙げられます。彼はイエスを見捨てて逃げ出し、イエスなんて知らないと3度も拒んだ人物です。(私たちはアンさんよりもペテロに似ているかもしれません。)そんなペテロにイエス様は尋ねます。『あなたはわたしを愛しますか?』

「アナタハ神ヲシンジマスカ?」という古いセリフがありました。多くの人は神を信仰の対象だと考えます。しかし、聖書は神は愛の対象だと教えます。神は信じるものというより、信頼し、愛し、関わる存在です。

「あなたは私を愛しますか?」ヨハネの福音書は、この問いかけをするために記されたとも言えます。

ヨハネの福音書は1章で、神様がこの世界と私達を造り出した、私達のいのちの源だと。人は神との関わりの中でこそ、生きることが出来る。しかしその神に背を向け、離れ、死んだようになった。だから、私達が再びいのちを得るために、神の子どもとなるために、イエス・キリストが来てくださったと語ります。(ヨハネの福音書1章1~14節までだけでも是非読んでみてください。)

それなのにペテロは自分とイエスとは関係ない!と3度言いました。(神と私は関係ない、これこそが罪の本質です。ある神学者は、罪を『神を神とすることにより失敗すること』と定義しました。)自分を造った方に、背を向け、軽んじ、目と耳をふさぎ、唾を吐きかけ、十字架で殺す。それが聖書に記されている私達人間の姿です。そして、自分のいのちの源をないがしろにしたため、どんどん苦しく、悲しく、空しくなっていく・・そんな私達の姿に耐えられず、神様は何度でも手を伸ばし問い続けました「あなたは私を愛しますか?」

ペテロは、イエスを知らないと「3度」拒みました。「3」は当時特別な意味で使われた数です。完全数と言われ、完全に、完ぺきに、全く、などを意味しました。ペテロはイエスを完全に拒んだのです。全く捨て去ったのです。それでもイエスは現われ、ペテロに「3度」問うのです。「あなたは私を愛しますか?」

イエスは自分を裏切ったペテロを、そして神と人を愛することに日々失敗するわたしたちを何度でも何度でも、完全に、無限に愛したのです。ですから、何度失敗しても、何度失望しても、決して自分自身を諦めないでください。

<神の一方的な愛>

イエスを裏切ったのはペテロだけではありません。イスカリオテのユダも同じです。しかし、ユダは裏切りと言う自分の失敗を、自分で解決しようと、自死を選びました。一見責任感があるようですが、もっとも神を悲しませる選択です。ユダも裏切りを後悔をしました。私が悪かった、金は返す、と後悔したユダに対して、宗教家は言い放ちます「自分で始末することだ。」(マタイ27:49)これは悪魔の言葉です。

後悔と悔い改めは違うのです。後悔は悔いて自分の内側に沈み込むことですが、悔い改めは原語のギリシャ語では方向転換を意味するように、悔いて神に向くことです。私たちに必要なのは、悔い改めの方です。私達の過ちに、始末をつけられるのは、キリストの十字架だけなのですから。

イエスは自分を裏切った弟子達のためにも、自分を殺そうとした宗教家のためにも、十字架にかかり、赦しを祈りました。そして復活の後、自分を裏切った弟子達を自ら訪れました。今回が「3度目」です。

 弟子達が食事の用意をしたのではない。イエス様が彼らのために食事を用意し、いっしょに食べました。(食事とは親密な関係の表現です。)そして「彼らが食事を済ませたとき、」(21:15)つまり、十分にご自分の愛と赦しを表現した後で訊ねたのです。そう考えると、

「あなたはわたしを愛しますか?」この問いかけは別の響きを持って聞こえてきます。

「十字架でわたしはあなたを愛しました。十字架でわたしはあなたを赦しました。」

私達が何度無視しようが、裏切ろうが、失敗しようが、見捨てず近づいて問います。「あなたはわたしを愛しますか?」それは神の、一方的な、先行する、無条件の愛を意味します。「わたしはあなたを愛しました。」

ヨハネは晩年、どれだけ罪深くても、このキリストの無限の愛にすがるようにと、教会を励まします。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」第一ヨハネ1章9節  失敗をした時、私たちがすべきなのは、後悔でも、諦めでも、自己解決でもありません。まず何より憐れみ深い神に向くことです。

<イエスの目に映るあなた>

ペテロの本名はシモンです。植物の<葦>を意味します。弱いものの代表です。しかしイエスは、シモンをペテロ<岩>と名付けました。イエスの目にシモンは、強いものと写っていたのです。イエスを裏切ったシモンは、自分の弱さに失望し、自分はもうダメだ、やはり自分は弱い<葦>だ、と思ったでしょう。全てを諦め、漁師に戻ろうとしていました。

しかしイエスは、彼を見捨てず、「わたしの羊を飼いなさい」と教会のリーダーと言う大きな役目を任せます。だれが弱い<葦>にそのような役割を任せるでしょう?イエスは、ペテロを信じ、あなたは強い<岩>だと励ましたのです。神の愛を知り、その愛に応えたペテロは、イエスの目に映る姿に変えられていきました。

あなたは自分をつまらない存在、意味のない存在、価値のない存在、そう思っていませんか?

もしあなたに価値がないなら、どうしてイエスはあなたのために十字架にかかるでしょうか?どうしてイエスはあなたのところに来て「あなたはあなたを愛しますか?」とたずねるのでしょう?

イエスは、あなたを決して見放さず、見捨てず、何度失敗しても、近づき、期待を込めて訊ねてくださいます。

「あなたはわたしを愛しますか?」

わたし達はイエス様の問いかけに、イエス様の十字架にどう応えましょうか?

<今週の黙想>「あなたはわたしを愛しますか?」日々、この語りかけに思いを巡らし、自分なりに神の愛に応える応答をしてみてください。

Top